タグ:聖地巡礼の旅, 1995(平成07)年, 太宰治没後55年, 石川啄木, 渋民, 石川啄木記念館, 渋民小学校旧校舎, 旧斉藤家住宅, 澤地久枝, 石川節子, 愛の永遠を信じたく候, 啄木かるた

|
目次
この記事の平均読了時間は 約22分(10,988文字) です
|
啄木新婚の家を辞して盛岡駅に戻り、渋民の石川啄木記念館に行くべくバスを求めて反対側の東口ロータリーに出た。
今思い出してみても、盛岡駅とロータリー、それに乗ったバスや走行中のバスから眺めた風景の数々が朧げに目に浮かぶ。
ともかく道行く人に聞いてバスの停留所を教えて貰い、駅のロータリーの停留所で行き先を確認して下車する停留所を念のため、バスの運転手さんに確認してからバスに乗り込んだ。
メモ魔な私は携行していたB5ノート「聖地巡礼の旅 H.7.20~23」に、忘れず次のように書き込んでいた。
渋民 石川啄木記念館
JR盛岡駅からJRバス2番停留所
「久慈行き」に乗り、岩手渋民で下車
東北ワイド周遊券+クーポン(100円)
※9:50発に乗車 10:26岩手渋民下車
200m右手高台
B5ノートには上記のように「クーポン(100円)」と書いてあるが、別にクーポン券があるワケではなく、確かバスに乗車する際だったと思うが、東北ワイド周遊券を運転手さんに見せて100円で乗車したことを指している。
JRバス以外に別系統で東北バスがあって、東北バスだと「記念館前」停留所を下車すれば石川啄木記念館に行くのに一番早いようだが、東北ワイド周遊券を持っているとJRバスが半額の100円で乗れるため、旅先ではケチな私はJRバスに乗ったというワケだ。
バスに揺られること30分ちょっと。
車窓の風景は、簡単に言ってしまえば日本各地のどこにでもあるだろう普通の田園風景だが、私が子供の頃に母の実家へ墓参りに行くべく、東武東上線の川越駅からバスに乗って北埼玉郡川里村
バスから下車してバスの進行方向へ200mほど歩いた右側に、写真の石川啄木記念館がある。
「こんな田舎に」と言っては大変失礼だけども、近代的で立派な記念館に驚いた。
さすがに記念館内部は撮影禁止だから、パンフレットをスキャンしてPDFにしてみたので、当時の石川啄木記念館の雰囲気を見ていただきたい。
記念館の中はそう広くはないが凝った作りになっていて、啄木に関する収蔵品や展示が充実している。
しかし、啄木自身が26歳の若さで夭折しているから、丹念に見ても小一時間もあれば十分な内容だ。
記念館を入って右側に何やら記念館に関する文章が展示してあり、それに沿って右側からぐるっと一周する形で展示を見て行き、再び玄関に戻ると右手(玄関から入って左手)に喫茶室があるので、一通り展示を見終わってから一服するのに丁度いい。
平日の午前中だからか、見学しているのは私以外に同年輩らしい若いカップルが1組だけで、喫茶室に入ると客は私だけだった。
喫茶室奥は一面大きなガラス窓で、窓越しに古い建物が2棟見える。
最初「あの古い建物は何だ?」と思い後で見学しようと、まずはアイスコーヒーを注文して席に座り、タバコに火をつけた。
すると、職員らしい、温厚そうな60歳ぐらいのオジサンが声をかけてくれ、色々と教えてくれた。
窓外に見える古い建物は、啄木が代用教員として働いていた渋民小学校の校舎と、その当時下宿していた斉藤家の住宅であること、日本海側からは(秋田の人には悪いけど)奥羽山脈に守られて岩手は住みやすい気候になっている等、興味深い話をしてくださった。
それにしても・・・石川啄木は日本人なら誰もが知るように、明治期の詩人だ。
これだけの記念館でもスゴイのに、啄木が代用教員をしていた小学校の校舎と、その当時下宿していた住宅までをも移築して保存し、公開しているとは本当に驚いた。
職員らしいオジサンは、私が単身埼玉から見学に来たことに驚きながらも喜び、さらに太宰治のファンで斜陽館に行くことを知ると、こちらが気恥ずかしくなるほど感心していた。
「実は啄木新婚の家を見学したら、ぜひ渋民の石川啄木記念館に行った方がいい、と勧められまして」といった話をすると、オジサンは相好を崩していた。
啄木がこれほどまでに地元の人に愛されているとは、やはり現地に来てみなければ分からないものだと、痛感したのだった。
記念館を正面にして左手奥に、渋民小学校旧校舎(※リンク先は「旧渋民尋常高等小学校」となっているが、本稿では「渋民小学校旧校舎」とする)と、旧斉藤家住宅が並んで移築されている。
記念館の左手に入るとすぐ、写真の案内板ある。念のため、書き出しておこう。
渋民小学校旧校舎明治17年10月に渋民村字渋民の愛宕神社の下に、渋民小学校校舎が650円で造られた。啄木は明治24年この学校に入学して4年間勉学し、その後明治39年4月から一年間、日本一の代用教員として教鞭をとった思い出の校舎である。昭和42年7月松内より現在地に移し復元した。
啄木についてある程度知っている人なら、啄木は少年の頃から神童と呼ばれ、この案内板にある通り首席の成績で尋常小学校を卒業し、高等小学校から旧制盛岡中学校に進学したのを知っているだろう。
旧制の尋常小学校は4年制で、この時代の一般家庭の子女は小学校を卒業すると丁稚や女中として奉公に出されるのが普通だ。
ところが啄木の父・
そもそも古来より歴史が古く名のある寺の住職というのはインテリ層であって、江戸時代では檀家という形で地元民の戸籍を管理する立場でもあった。
時代背景として明治維新で成立した新政府は、欧米列強と対峙して日本の独立を守るためにも、国民一般の教育を重視せざるを得なかった。
なぜなら科学技術と文化を欧米列強レベルに引き上げねばならず、何よりも強力な軍隊は教育された国民によってのみ持ち得るからだ。
そこで明治新政府は、具体的には1872(明治05)年8月に「学制」を公布し、それまでの国学・漢学・漢方医学ではない、近代的な教育機関として全国に大学校・高等学校・中学校・小学校を設置することにしたのだった。
義務教育ではほとんどやらないが、幕末・明治維新からの近現代史を学ぶと非常に面白く、明治時代に設立された現在の私立大学の文系学部には、一般教養で「◯◯大学の成立と近代」といったような科目があるハズだ。
この辺を掘り下げて書くと本稿の意図からズレるので、時代背景としてあとひとつだけ指摘するに留めるが、明治20年代には全国的に「オッペケペー節」が流行した。
オッペケペー節が流行した時代背景として、大日本帝国憲法が発布されて本格的な議会政治が始まり、鉄道も東海道の新橋―神戸間が開通、言文一致体としては初の二葉亭四迷の小説『浮雲』が出版、演劇でも反歌舞伎派(新派)が誕生と、政治・社会・文化・言語といった日本社会のすべての面で新たな時代が立ち上がろうとする時期だった。
自由民権運動の中にあって、オッペケペー節は世相を揶揄する流行歌として日本中に広まったが、この時期に次世代を担う若者として啄木が学び、さらに「日本一の代用教員」を自負して母校の尋常小学校で教鞭をとった意味は大きい。
ただ、啄木は旧制盛岡中学を中退しているから、厳密には代用教員の資格はなかったと思うのだが・・・今より遥かにおおらかな時代だったのかも知れない。
周囲を見渡しても、見学に来ているのは私以外いないようだが、渋民小学校旧校舎には作業員風の人が2~3人出入りしていた。
工事ではないようだし、特に制服や作業服を来ているわけでもなく、何をしているのか分からないが、通りがかった20代と思われる作業員風の人に声をかけて写真を撮ってもらった。
外観からして想像していたが、写真の通り中に入ると天井が異常に低い。
恐らく2mもなく、190cmぐらいの高さに天井があって、さらに梁があるから私の身長(183cm)だと、その圧迫感たるやハンパではない。
明治期の成人男性の平均身長は160cmぐらいだから、この天井の高さで問題はなかったかも知れないが、現代では通用しない建築だ。
写真は中に入った右側で、写真右手に2階へ上がる階段が見えるが、その手前に「あぶない/危険/入らないで下さい/石川啄木記念館」と書かれた衝立が置かれている。
残念ながら2階を見ることが出来なかったが、建物の古さと強度からして、2階には入れないのだろうと思った。
さらに右側奥を見ると、写真の古いオルガンと囲炉裏がある。柱には木札で「男子用いろり」と書かれているが、男子用の囲炉裏とはどういう意味なんだろう?
戦後の高度経済成長により、家庭の電化と電化製品の普及で囲炉裏は急速に姿を消してしまったから、私を含む現代人は囲炉裏と言えば実際に使われている例から「焼いたり煮炊きをするもの」という認識だろう。
ところが囲炉裏には様々な機能があって、煮炊きはそのひとつでしかなく、暖房や乾燥といった機能や、夜間は照明といった機能もあった。
小学校だし、恐らく冬場の暖房として使われていたと思うが、それにしても男子用というのが解せない。
壁や天井がやけに煤けているのも、この囲炉裏のせいだろうと思うのだが。
写真は中に入った左側で、写真左手に机らしきものが置かれた教室と、右手には床に何かを敷いた部屋が見える。
写真は机らしきものが置かれた教室と思しき内部で、恐らく教室として使われていたのだろうと思うが、古い机と椅子がいくつか並べて置かれていた。
教室と言っても8畳ぐらいの広さしかなく、木札で「置所」と書かれている辺りには棚があったのだろう、いわゆるロッカーのような使い方をしていたと想像できる。
写真は床に何かを敷いた部屋の内部だが、左奥に囲炉裏があって、その周囲に畳表のようなものが敷かれていた。
木の床に畳表?とも思うが、教室には見えないし、2階に行けないから校舎全体がどうなっているのか分からないが、職員室として使われていたのだろうか。
写真のように、渋民小学校旧校舎のすぐ右隣に啄木が下宿していた旧斉藤家住宅が移築されている。
近寄ってみると、正面左側の戸板に写真の案内板が固定されている。これも念のため、書き出しておこう。
石川啄木の宿家啄木が明治三十九年から同四十年五月まで日本一の代用教員を自負して、母校渋民小学校の教壇に立った頃に生活していた借家(斉藤佐蔵氏宅)である。
この二階で書いた小説には、かの有名な「雲は天才である」や「面影」などがある。
長女京子が、節子夫人の実家(堀合家)で生まれたことを知り「予が若きお父さんとなりたるなり。」「天地に満つるは愛なり。」「経っても臥ても居られぬ様なりき。」など喜びのさまを日誌に残しているのも、この家である。
また啄木自身が自ら漂白の旅と称している北海道の生活に旅立ったのもこの家からであった。
尚この家屋は、東北大学工学博士佐藤巧教授の調査によれば、旧藩政時代の宿場の民家として重要な、岩手県の史跡文化財であるとも云われている。
この家屋を移築保存するについては、家屋を斉藤佐蔵氏から、土地を沼田静夫氏からそれぞれ寄贈いただいている。又財団法人観光資源保護財団から格別な御理解支援を戴き合計七拾万円の補助を受けて、ここに移築復元することが出来たのである。昭和四十五年八月
啄木は、恐らく2階部分の一室を間借りする形で下宿していたのだろうと推察するが、この文章だけだと、啄木がこの斉藤家のどこに下宿していたのかが正確には分からない。
中に入ると、奥まで廊下のように
つまり、玄関から奥の部屋まで
写真は入って一番手前の部屋で、写真左手に糸を紡ぐ古い糸車が見える。
現代の我々からすると、糸車なんて日本昔話か古い童話に出てくるぐらいしかイメージがないと思うが、重要だからちょっと脱線する。
古くから農家では養蚕で蚕を飼って繭を取り、主に女性が繭から生糸を撚り合わせて糸を作るために糸車を使ってきたし、日本昔話の「鶴の恩返し」の例を出すまでもなく、
特に明治新政府は外貨獲得のために養蚕を奨励したこともあって、日本のほとんどの農家では蚕を育てていたし、当時の農家は現金収入が少ないから、蚕は現金を得る貴重な家畜でもあった。
古今東西、人類は綿花や麻、羊毛や
この糸を紡ぐ工程は、糸車のような機械を含む様々な工夫が試みられた歴史でもあるが、この作業を人力から蒸気機関を利用したのがザックリ言えば産業革命であって、特に産業化された糸を紡ぐ工程を「紡績」と呼ぶ。
厳密に言うと、蚕の繭から長い繊維を繰り出して撚り合わせて糸にすることを「製糸」と呼ぶが、世界遺産になった群馬県富岡市の富岡製糸場は日本における産業革命をキャッチアップしたシンボリックな存在のひとつだ。
これはあまり一般に知られていないようだが、ヨーロッパでは古代から前近代まで下着は主に動物の皮から作られたものを着用していて、これは当然ながら着心地や履き心地がヨロシクない。
ところが、イギリスでの蒸気機関の発明により、紡績機械や
明治新政府が外貨獲得のために養蚕を推奨したのもこの背景があったからで、日本の初期の貿易産業は繊維業が支えたのである。
今や世界に冠たるトヨタ自動車は、元はと言えば豊田佐吉が発明した自動織機で、祖業は豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)であって、その自動車部門が独立したのが現在のトヨタ自動車だ。
当時イギリスを含む産業革命をキャッチアップした欧米列強が何をしたかと言えば、綿花を含む砂糖・コーヒー・タバコ・ゴム等のプランテーション事業で、それらは軍事力を背景とした植民地化政策と一体となって、多くの植民地の獲得と現地人による奴隷労働に支えられることになった(現在でも支那によるウイグル綿の生産は、支那人が支配しているウイグル人の奴隷労働に支えられていると言われている)。
イギリスから見たら極東でアジアの小国である日本も、ウカウカしてたら欧米列強の植民地にされてしまうから、明治新政府は急速な欧化政策とともに富国強兵政策をとり、前述の通りその基礎に国民一般の教育を重視して要点に据えた背景がある。
結局のところ、欧米列強と日本の帝国主義が激しくぶつかって総力戦で戦争をしたのが第二次世界大戦であって、日本は欧米列強が植民地にしたアジア諸国の開放という大義を掲げて大東亜戦争を戦った。
ゆえに、啄木の母校でもあり、後年教鞭を取った渋民小学校旧校舎と、その当時に啄木が下宿していたこの旧斉藤家住宅を移築保存して現代に公開している意義とその価値は、世界的に見ても計り知れないものがある。
この旧斉藤家住宅は、恐らく江戸末期頃の建築だと思うが、変形的に一部2階が存在する。
普通に考えて他人を下宿させるなら2階部分だろうと思うが、この茅葺きの屋根裏部分がどうなっているのか、写真に撮ってみた。
当時の民家は材木と土壁だけで、現代建築のように気密性や断熱材その他がないし、生活様式も今では想像の域を出ないが、東北地方で冬が厳寒だから囲炉裏が暖房として大いに役立ったことだろうと思う。
その証拠に屋根裏の木材や梁は煤けまくっていて、囲炉裏の温かい空気が2階をも温めていただろうと想像できる。
写真は家の奥から玄関に向かって撮ったもので、写真左手の
囲炉裏があるのは写真手前(家の一番奥)の部屋で、2階への階段は玄関から入ってすぐの部屋にある。
記憶がアイマイだが、確か2階には登れたけど手元に2階と思しき写真がないから、恐らく何もなかったような気がするし、2階部分は家の中央に位置していたように思う。
これは渋民小学校旧校舎でもそうだが、特に展示する意味での照明(ライト)が何一つないから、現代の住宅に比べて採光の面でも室内は明るくなく、一体に暗い。
それに家の中には
水道なんてこの時代にはないから、近所の井戸を利用していただろうし、玄関付近には水を貯めておく大きな水瓶ぐらいは置いていたかも知れないが、そういった水瓶はなかった。
ついでに書けば、トイレなんてあるハズもなく、古来より男女の仲を評して「臭い仲」と表現するのは、共同利用の
風呂だと? そんな贅沢なモノ、昭和の高度経済成長期まで普通の個人宅に風呂なんかあるかい!(笑)
と、まぁ、令和の若い世代が旧斉藤家住宅を見たらカルチャーショックを受けること請け合いだ。
記念館を正面に見て右側に写真の店舗がある。1店舗は飲食店で、もう1店舗はお土産を扱っているお店だ。
記念館の喫茶室にも軽食メニューはあったと思うが、見学者の食事とお土産のニーズをも満たすとは、やはり渋民は啄木を輩出するが如くタダモノではないらしい。
一通り見学を済ませた私は、何かしら記念となるお土産が欲しかったので、その名も「啄木の店」と大書してあるお店に入った。
その店で何を買ったのか・・・狭いながらも私の部屋は本とパソコン関係でモノに溢れかえっているため、ちょっと探し得なかったが、ひとつには表具が必要であるが、啄木の詩句がかかれたモノを3種類ぐらいと、次の文庫だ。
試しにAmazonを調べてみたら出版社は違えど販売しているので紹介するが、当時はこの文庫を本屋で見たことがなく、読んでみたくて買って帰宅後すぐに読んだ。
当時としては珍しく、14歳同士の恋は結婚にまで発展するが、啄木は規格外のムチャでダメでクズな男であって、妻の節子は大変な苦労を強いられたことは、想像に難くない。
その節子に関して、私が旅行した当時は従来ほとんど知られることがなかったが、この文庫によって詳しく知る事が出来た。
節子はこの時代の女性にしては極めて珍しく、当時の高等教育を受けた人であった。
だからこそ啄木の天才を見抜き、ムチャでダメでクズであろうが啄木とともに生涯を歩む決心をし、副題にあるように「愛の永遠を信じたく候」というような人生だったのだと思う。
啄木は妻節子に知られたくないからローマ字で日記を書いて、それは現在『ローマ字日記』として読むことが可能だし、私も若い頃に読んだのだが、こりゃあヨメさんには読ませらんねーだろ?な内容だ。
ところが本書によると、節子は啄木の意に反して(?)ローマ字ぐらい読める才女だったから、実は啄木の『ローマ字日記』の内容は読んで知っていたようだ。
・・・女っちゅーのは、恐ろしいもんですな。(((;゚Д゚)))ガクガクブルブル ←
京子のことをたのむと鉛筆で書き、郁雨の顔を見て、妹(ふき子)を可愛がってやってくれといい、二、三分して眼をとじて、
「もう死ぬから皆さんさようなら」
といい、二、三分して眼を開き、「なかなか死なないものですねえ」といった。
「皆さんさようなら」
ともう一度いって眼をとじ、口から黄色い泡をすこしあふれさせて、節子の息は絶えた。啄木の死から一年と二十二日の余命、二十七年の人生であった。孤児になった京子は七歳、房江はまだ最初の誕生日の手前にいる。出展:澤地久枝『石川節子 愛の永遠を信じたく候』(文藝春秋・1991(平成03)年12月10日 第1版)
当時、毎晩夜遅くまで仕事をし、夕飯がてら会社の周辺で終電までハシゴして呑み歩いては地元でも2~3軒ハシゴ酒してから帰宅して寝る毎日だった私は、通勤中やちょっとした寸暇に読書をしていた。
ある日、帰宅してさらに一杯やりながらここまで読んで、堪らずバイクに乗って朝まで営業している、地元で懇意にしているマスターの店で呑んだ。
・・・当時の私の仕事や私生活はどうでもいいが、あの頃は私が社会に出て最初に勤めた会社の関係の友人と呑むことが多かった。
その一人に、私が勤めていた会社の親会社みたいな存在の会社の社員で、私より2歳年上だったかと思うが、専門卒の人がいた。
私は入社2年目だったし、彼は新入社員で別にITの専門卒でもなかったしSEでもプログラマでもなかったが、お互いに会社を辞めた後も共通の友人と一緒に呑むことが多かったのである。
ある時、この「聖地巡礼の旅」の話をしたら、「なんだ、渋民に行ったのか?俺の故郷だよ」と言うので驚いて、あれこれ話をしたら「おお、なんだ、啄木が好きなんかい?そうか、それじゃあ年末に田舎に帰るから、地元で小学生がやる「啄木かるた」を買って来てやんよ」と。
は?そんなモノがあるの!?Σ(°Д°)
翌年、いつだったか一緒に呑む時があって、彼は忘れず写真の「啄木かるた」を持参して私にプレゼントしてくれた。
私が驚いて非常に喜んだのは言うまでもないが、彼はそんな私を見て相好を崩していた。
彼は別に文学に興味はないし、私も彼と文学の話をした覚えはないのだが、彼にはやはり地元愛があって、それは啄木愛にも通じるようだった。
私は基本的に蔵書が宝物だから、先に紹介した『石川節子 愛の永遠を信じたく候』もそうだが、この「啄木かるた」も、未だに大切に保管している。
結論を先に書くようでアレだが、太宰治の場合はその文学からして大いなる誤解があるから、ある意味仕方がないにしても、生誕地の青森・金木でも、終焉の地の東京・三鷹でも、啄木ほど地元の人に愛されているとは言えないと今でも思う。
後年、三鷹市は2009(平成21)年の太宰治生誕100年に、にわかに太宰治文学サロンを急ごしらえした。
その後も、とっくに太宰の住居なんか失われていて素知らぬ顔をしていたクセに、図面もないのに残っている資料から太宰治展示室 三鷹の此の小さい家をデッチ上げて「太宰治と三鷹」をアピールしている。
あのね、三鷹市さんよ、私から言わせれば、やることなすこと全部が薄っぺらいんだよ。
私は若い頃に三鷹市のお隣である武蔵野市に1年ほど住んでいたが、太宰ゆかりの井の頭公園がある武蔵野市も、今や太宰で売っている三鷹市も、どちらの市もその市民も、太宰治については薄情だったよね。
だから太宰ゆかりの跨線橋だって、三鷹市はJR東日本が撤去しても一向に構わないし、デジタル遺産で残すなんてヌルイことを言ってやがる。
今から30年前に盛岡市を旅行して啄木の足跡を辿った私からすると、太宰治に関する三鷹市の取り組みなんかは取るに足りず、批判するほどの意味すらもないが、イヤミのひとつぐらいは言いたくもなる。











コメントはありません。 Comments/聖地巡礼の旅/1995/0721-3











