タグ:聖地巡礼の旅, 1995(平成07)年, 太宰治没後55年, 石川啄木, 渋民, 石川啄木記念館, 石川啄木慰霊塔, 秋浜三郎, 与謝野寛, 与謝野晶子, 渋民公園, 歌碑, 鶴飼橋, 北上川, 渋民駅

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目次
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石川啄木記念館の敷地内には、いくつか歌碑がある。
記憶がアイマイで位置関係がシカと思い出せないが、写真は石川啄木記念館を正面に見て左手に入った、ちょっと奥の高台だったと思う。このさらに奥に渋民小学校旧校舎と旧斉藤家住宅が並んで建っている位置関係だったハズだ。
写真の右側に「石川啄木慰霊塔」とあるのが読めるが、左側の歌碑が分かりにくいので、書き出してみよう。
さわやかな小春日和の
姫神山
薄霞していともやさしく
この歌碑のすぐ左側に小さな案内板があって、それを読むとこの歌は、啄木が代用教員をしていた頃の教え子・
啄木は生前、故郷・渋民の
この秋浜三郎氏が渋民での第1号となった歌碑(後述)や、石川啄木記念館の建設に尽力したという話であった。
位置でいうと、写真の左手(写真ギャラリーの先頭「石川啄木記念館から岩手山を望む」写真)が岩手山側で、写真の右手が姫神山側になる。
写真の与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻歌碑は、
これも念のため、書き出してみよう。
晶子
いつしかと
心の上に
あとかたも
あらずなるべき
人と思はず末女 森 藤子 しるす
寛
古びたる 国禁の書に
はさまれて 日附のあらぬ
啄木の文門下 西村一平 書
この歌碑は、文芸雑誌『明星』を主宰していた与謝野寛(鉄幹)と、同誌での女流歌人としての代表でもあり、鉄幹の妻・晶子が夫婦ともども啄木と関わったから、このような歌碑があるのだろうと思うが・・・・・・
歌碑にある通り、与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻の筆ではなく、夫妻の6女・森藤子(1919~2012年)と鉄幹の門下・西村一平(1911~2001年)によるもののようだ。
この歌碑にある2首の出典は不明だが、少なくとも啄木の詩や歌ではないのは間違いないようだし、ではなんでこのような歌碑があるのか?は謎のままだ(ご存知の方はコメントでお知らせ下さい)。
石川啄木記念館の喫茶室で、職員らしいおじさんから近くにある渋民公園に啄木の歌碑があることを聞いていたため、ついでに寄ってみることにした。
渋民公園には前述した第1号の歌碑があり、写真はその案内板だ。
啄木歌碑啄木十回忌の大正十一年に「啄木をふるさとに帰せ」の運動が起り、金田一京助氏等の文芸演説会で資金が集められました。歌碑は村民二百人が三日がかりで雪中橇で運び、岩手山を仰ぐ北上河畔を選んで建てられました。
この碑は啄木歌碑第一号としてみんなに親しまれています。
また、北上川の鶴飼橋は台風による流出がたびたびあって、明治三十年に吊橋として架替えられました。啄木はこの一帯を好んで散策し、多くの作品を生みました。昭和四十八年六月 玉 山 村玉山村観光協会
啄木が亡くなったのは1912(明治45)年だが、その10回忌の1922(大正11)年に「啄木をふるさとに帰せ」という運動が起きるとは、啄木はどれだけ故郷に愛された詩人であっただろう。
旧制盛岡中学の先輩であり、良き理解者でもあった金田一京助の助力があったにせよ、資金を集めて歌碑を建てるのは(しかも村民200人が3日がかりで歌碑を
やはり写真だと全然よく分からないので、書き出しておこう。
やはらかに柳あをめる
北上の岸邊目に見ゆ
泣けとごとくに 啄木
この詩は啄木新婚の家の床の間の掛け軸にもあった詩だが、啄木の詩集『一握の砂』に収録されているので有名だ。
歌碑の案内板にあったように、第1号の歌碑を北上河畔を選んで建てるにあたり、この詩を選んだのだろう。
啄木歌碑のすぐ近くに、写真の案内板がある。
啄木の通った道啄木がこの地にいた頃は渋民駅はなく、好摩駅が交通の主要拠点であった。渋民村に住んでいた啄木は、東京や函館に行く際には現在の鶴飼橋の下流に架かっていた元の鶴飼橋を渡り、このあたりから鉄道沿いに好摩駅に歩いたと言われている。
この案内板によると、後で私が泣きを見る
これがその
鶴飼橋 「橋はわがふる里・・・・・・」の
詞書 ではじまる啄木の長詩「鶴飼橋に立ちて」にうたわれているこの橋の歴史は古く安政四年(一八五七年)の文書の中に「鶴飼橋流落候節云々」とある。
この場所は、北上川の流れが激しく、たえず流失をくり返し、明治以降は渡し舟による通行もしばらく続いた。下田部落の武田竹松氏が日清戦争に応召した際仙台近くでみた吊橋にヒントを得、兵役を終えるや橋の架設に奔走し、明治三十年(一八九七年)三月、幅五尺(一五五cm)、針金を数本よじり川幅一ぱいに渡した吊橋・鶴飼橋が完成し、北上川の両岸の交通が確保された。
この後いく度か架け替えられ、使われてきましたが、老朽化したため、昭和五十九年、当時のイメージを活かし現代的な吊橋として架け替えられた。玉山村
この案内板にある「橋はわがふる里・・・・・・」の詩は、啄木の処女詩集『あこがれ』に収録されている「鶴飼橋に立ちて」を指している。
実際に写真の鶴飼橋を半分ぐらいまで渡ってみると、北上川が間近で眺めが良く、川面を吹く風が心地よい。
吊り橋の鶴飼橋の下流(になるのか、鶴飼橋を正面にした左手)に見えるこの写真の橋がバイパスのようになっていて、車や自転車等の車輌を含め通常はこの写真の橋を利用しているのだろう。
時間があればこのまま鶴飼橋を渡って
とにもかくにも、石川啄木記念館近くのバス停に戻ってバスを待つしかない。
石川啄木記念館近くのバス停で、盛岡行きの時刻表を携行しているB5ノート「聖地巡礼の旅 H.7.20~23」に書き留めたが、時間的につい今しがたJRバスの盛岡行きが出てしまったようだ。
バス停の周囲を見渡すと、近くで酒屋が1軒営業している。
何かしら飲み物と酒を補充せねばなるまいと思い、「駒井酒店」という昭和さながらの酒店に入ってみた。
すると、手頃なウイスキーがなく(好きな銘柄と手頃な容量のボトルがない)、あれこれ店内の棚を探してみても、ハードリカーで購入候補になるのは、普段呑まないブランデーのV.S.O.Pのスキットルボトルぐらいだ。
仕方なしV.S.O.Pのスキットルボトルを手に会計をすると、店主らしいおばさんから物珍しそうに話しかけられた。
私としては買ったV.S.O.Pを呑みながら気長にバスを待つつもりでいたのだが、私の話を聞くや、店主らしいおばさんはすぐに壁に貼ってあるバスと電車の時刻表、そして壁の時計を見比べて「14:18の汽車があるから、渋民駅まで歩けばいい」と言う。
そんなの、駅までの道もワカランし、歩くのは疲れる上に激しく面倒だ。
そこで素直に 激しく面倒 行き方が分からない旨を言うと、「そこの道を道なりにまっすぐ歩いて10分~15分も歩けば右手に駅が見えるから大丈夫」いや、大丈夫ってそんな。(;´Д`)
私は知っているのだ。母の実家もそうだが、田舎の人ほど歩きゃあしねぇ。
10分~15分なんてのは「車で走った」場合の所要時間であることの方が多く、それをあたかも徒歩の所要時間のごとく言うのが、田舎のヤツ等の
騙されるものか!と食い下がると、「この辺のジジ・ババでも20分や30分ぐらい平気で歩くのに、若いオマイさんが歩けないハズはなかろう」「14:18の汽車に乗るならすぐに行かないと!」と、あくまで歩けとおっしゃる。
そうまで言うのなら・・・と、時間的にバスもないことだし押し切られた形で歩き出してみたはいいものの、歩いても歩いても、駅どころか線路らしいモノすら見当たらない。
腕時計を見ながら「14:18発の電車に間に合わないと、どれだけ駅で待つことになるだろう?」という不安もあり、誰かに駅までの道を聞きたくても、田舎だと歩行者がいないのがデフォルトの光景であって、バスを待たずに歩き出したことをチクチク後悔していた。
途中、奇跡的に第一村人(?)を発見して駅までの道を聞いて修正し、タップリ20分以上早歩きに歩いて14:12渋民駅に到着。
ふぅ、これでスムーズに盛岡駅に・・・って、14:18発は下り電車じゃん! 盛岡行きの上り電車は14:46発やないかーい!!
BBAに騙された!と思いながらポケット時刻表を取り出し、時間潰しもかねて金木までの行程予定を組み立ててみた。
| 駅名 | 発着 | 路線・見学予定・その他 |
|---|---|---|
| 渋民 | 14:46発 | 東北本線 |
| 盛岡 | 15:05着 | |
| 15:38発 | 東北本線「はつかり」15号 | |
| 青森 | 17:55着 | |
| 18:22発 | 奥羽本線 | |
| 川部 | 19:03着 | |
| 19:03発 | 五能線(最悪19:47発) | |
| 五所川原 | 19:30着 | 最悪20:16着 |
| 20:36発 | 津軽鉄道 | |
| 金木 | 21:56着 | |
| 22:??頃 | 斜陽館チェックイン(時間未定) |
ヱ・・・?
まだ14:20を過ぎたぐらいなのに、金木駅に到着するのって最悪21:56!?Σ(゚Д゚ノ)ノ
ここから、さらに8時間もかかる・・・の?Σ(゚д゚lll)ガーン














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