タグ:聖地巡礼の旅, 1995(平成07)年, 太宰治没後55年, 石川啄木, 盛岡, 啄木新婚の家, コラム, 志賀直哉, 三島由紀夫
盛岡城址公園(岩手公園)を一通り散策して見て回ったが、時間はまだ7:00ちょっと前だ。
特にすることもないし、行く所もないから『ブルーガイドパック東北』を取り出し、啄木新婚の家への行き方を調べた。
『ブルーガイドパック東北』の地図によると、盛岡城址公園(岩手公園)を背に右に歩くと大通り(中央通り)に出るから、そこを左折して来た道を戻るように盛岡駅がある方向に歩けばいい。
写真だと、この「岩手公園下」交差点を左に歩くと中央通りに出るというワケだ。
中央通りに出たら左折して6つ目の信号がある交差点を右折すると、すぐ啄木新婚の家なのが分かった。
さらに『ブルーガイドパック東北』を見ると、中央通りに出たすぐ右側に盛岡地方裁判所があり、そこに「石割桜」なる有名な桜の木があるようだ。
ふと、太宰の「本当の気品というものは、真黒いどっしりした大きい岩に白菊一輪だ」という言葉を思い出した。
これは「津軽」(新潮文庫『津軽』所収)に出てくる言葉だが、前後を含めてちょっと引用してみよう。
「僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いているんだ。その大望が重すぎて、よろめいているのが僕の現在のこの姿だ。君たちには、だらしのない無智な薄汚い姿に見えるだろうが、しかし僕は本当の気品というものを知っている。松葉の形の干菓子を出したり、青磁の壺に水仙を投げ入れて見せたって、僕はちっともそれを上品だとは思わない。成金趣味だよ、失敬だよ。本当の気品というものは、真黒いどっしりした大きい岩に白菊一輪だ。土台に、むさい大きい岩が無くちゃ駄目なもんだ。それが本当の上品というものだ。君たちなんか、まだ若いから、針金で支えられたカーネーションをコップに投げいれたみたいな女学生くさいリリシズムを、芸術の気品だなんて思っていやがる。」
出典:太宰治「津軽」(新潮文庫『津軽』所収)
太宰は蟹田で旧制青森中学時代からの親友、N君(中村貞次郎)のお世話になり、翌日N君と青森市から朝一番のバスで来たT君、T君の勤め先である病院の小説好きな同僚と蟹田分院の事務長をしているSさん、
皆でビールを呑みつつ、N君の奥さんの手料理が入った重箱、それに山盛りのカニとシャコをつつきながら太宰は「五十年配の作家の心酔者」らしいその人達に向かって引用したセリフを言ってしまう。
「五十年配の作家」は明らかに志賀直哉のことだが、あまりに皆がこの作家について質問するから、太宰はつい悪口を言ってしまい、次第に興奮して座を白けさせてしまうのだ。
「君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言ってくれないのは、ひどいじゃないか」と、実に太宰らしい本音を漏らすが、太宰としては志賀直哉が「(小説の)神様」だの「貴族的」だのと言われ、その読書は「読書人の趣味の高尚を証明する」ような風潮に、かねてより反感を持っていたようだ。
私の10~20代の読書は、それこそ近代日本文学を中心に乱読した方で、太宰の影響もあったかも知れないが(元々そんなに作品が多い作家でもないし、事実それほど読んでもいないが)、志賀直哉の作品をそんなに良いと思ったことがない。
それは何も私だけの感想ではなく、志賀直哉の作品が現在文庫でどれだけ読めるのか?で証明されているだろう。
太宰が最晩年に「如是我聞」(新潮文庫『もの思う葦』所収)で強烈に志賀直哉批判をしたのは知られているが、その志賀が太宰の死後に書いた「太宰治の死」は太宰ファンでも案外知らないだろう。
そこでちょっと長いから端折りつつ、引用してみようと思う。
今年になって私は本屋から『斜陽』を貰い、評判のものゆえ、読みかけたが、話している貴族の娘の言葉が如何にも変なので、読み続けられず、初めの方でやめてしまった。続いて、『中央公論』に出た、「犯人」(※筆者注:新潮文庫『津軽通信』所収)という短いものを読んだが、読んでいるうちに話のオチが分ってしまったので、中村真一郎、佐々木基一両君との『文芸』の座談会で、『斜陽』の言葉と、このオチの分った話とをした。むしろオチは最初に書いて、其所までの道程に力を入れた方がいいと話した。
(中略)
この時の私の言葉の調子は必ずしも淡々としたものではなかった。何故なら、私は太宰君が私に反感を持っている事を知っていたから、自然、多少は悪意を持った言葉になった。
私は不幸にして、太宰君の作品でも出来の悪いものばかりを読んだらしい。太宰君が死んでから、『展望』で「人間失格」の第二回目を読んだが、これは少しも厭だとは思わなかった。
(中略)
私は織田作之助君についても、太宰君についても、自身ペンを執って、積極的に書くつもりはなかったが、座談会で、どう思うかと訊かれると、思っている事をいって、それがそれらの人の心を傷つける結果になった。それも淡々とした気持でいったのでない事は、太宰君の場合は今いったようなわけだし(中略)
『文芸』の座談会での太宰君の場合は、太宰君が心身共に、それ程衰えている人だという事を知っていれば、もう少しいいようがあったと、今は残念に思っている。
太宰君の心中を知った時、私はイヤな気持になった。私のいった事が多少ともその原因に含まれているのではないかと考え、憂鬱になった。この憂鬱は四、五日続いたが、一方ではこれはどうも仕方のない事だと思った。これを余り大きく感ずる事は自分に危険な事だとも思った。それ故、死後発表される「如是我聞」で、私に悪意を示しているという噂を聴いた時、イヤな気もしたが、それ位の事は私もいわれた方がいいというような一種の気安さをも一緒に感じた。
出典:志賀直哉「太宰治の死」(岩波文庫『志賀直哉随筆集』所収)
初出:1948(昭和23)年10月『文藝』第5巻第10号
ちなみに三島由紀夫の「太宰嫌い」も有名だが、三島は晩年に高校生からのインタビューで「先生はかなり太宰治に対して批判的な立場を取られていますけど、それはあの、どういうことなんでしょうか」という問いに、次のように答えている。
(インタビュアーが「太宰治の非常に女々しい面」と言いかけて食い気味に)そういうものが嫌いなんですね。それから、あのう、いろんな太宰と似たところもあると思うんですよ。そしてね、あなたがた友達でもね似てる奴って、なんかこうムラムラ癪に障るでしょ。割に仲のいい友達ってのは割に自分と性格なんか違う人間でね。似た奴ってのはとっても嫌うんですよ。僕もそういうようなものは太宰に対して基にあるんだと思う。太宰を見ていつも危険に感じるのは、もし自分がね、太宰を好きで太宰に溺れればね、あんな風になりゃしないかって恐怖感もあるわね。だから自分は違うんだっていう立場を堅持しなきゃ危ないと思ったですね、太宰は、太宰の作品を読んだ時には。
(中略)
(太宰の影響を受けたらしい田中英光の自殺や、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の執筆を例に挙げ、作者が蘇らなければ何の為に文学があるか、とした上で)太宰は結局その作品だけの問題じゃなくて作家と作品の関係の仕方ってものが僕には好きでない、ですね。才能は非っ常にある人ですよ。やっぱり近代日本文学であんなに才能がある作家ってのはあんまりいません。
参照:第49回 憂国忌に寄せて・オヤジ戦隊ダジャレンジャー・2019年11月24日
太宰治とその文学は、良くも悪くも伝説化してしまっていて、太宰を取り巻く周囲の言動を含めて独り歩きしている感がある。
私を含め、太宰ファンは太宰の作品や言動を鵜呑みにしてしまいがちであるが、太宰が批判・攻撃するほど志賀直哉はそんなに悪いヤツではなく、引用したように「スマンかった」と思っていたワケだし、三島由紀夫にしたところで太宰を強く意識していて、自分と似ている危険を感じたからこそ防衛反応的に「嫌いだ」と公言していたに過ぎず、実は太宰の作品を高く評価していたのだった。
いずれにせよ、志賀にしても三島にしても、太宰とその文学は「危険な存在」であったことに間違いはないし、私のような凡夫はもとより、若い人がヤラレるのは仕方がないことなのだ。
閑話休題。
実際に「石割桜」を見てみると、まだ朝早い時間帯で桜の季節でもなかったせいか、見事なまでになーんとも思わなかった。
普通なら「せっかく来たんだし、写真の一枚でも撮っておくか」となるが、あまりに何にも感じるものがなく、しかもフィルムと現像代をケチる心の方が勝っていて撮らなかった。
今ならデジカメやスマホで気軽に撮って気軽に消せるし、今の私なら間違いなく撮っていたと思うが、当時の私は若さゆえ、風流や気品を解せない野暮な若造でしかなかった。
なぜかよく分からないものの、不思議と損した気分になって啄木新婚の家にそそくさと向かった。
「石割桜」がある盛岡地方裁判所から20分ほど歩いたろうか、迷うことなく啄木新婚の家に着いたはいいが、見れば「開館時間 午前8時30分から午後6時迄」とある。
腕時計を見ると7:30に近い時間で、あと1時間もどうすべぇか?と思案にくれた。
場所的に盛岡駅は割と近いし、この時間なら駅で立ち食いそば屋ぐらいは営業を開始しているだろうし、腹ごなしをしておくのも悪くないと思ったが、どうせ見学が終わったら盛岡駅には戻るんだし、今ここで盛岡駅に戻って往復するのは負けた気がする。
それに当時の私はともかく移動はバイクに頼る人間で、歩くのは通勤の時ぐらいでしかないから、時間はあるが歩きたくない。
私は生来怠惰で怠け者であるから、論理的かつ効率的でなければ気に食わない(要するに怠け者だからムダなことに労力をかけたくない)ため、周囲に何か店がないかウロウロ歩き始めた。
すると、啄木新婚の家の近くに申し訳程度に文房具を扱っている駄菓子屋みたいな店が開いたばかりのところで、これ幸いと店内に入ると、店主らしいお爺ちゃんに怪訝な顔をされた。
見慣れない若い男が朝っぱらから何しに来たんだ?と思うのは仕方のないことで、私は気にせず適当に惣菜パン2つと缶コーヒーを買い求め、さて、どこで食うべぇかと、またもやウロツキ始めた。
近くには気の利いた公園もなさそうだし、歩き疲れたから適当な場所で縁石に腰を下ろし、缶コーヒー片手にムシャムシャとパンを食べ始めた。
周囲を見ると道を挟んで小学生が集団登校を始めており、小学生からしたら妙なオッサンが道端でパン食ってると、変な目でこちらを見ながら歩いている。
ああ、今日は平日か、などとボンヤリ考えながら、ハタから見れば不審者でしかない私はパンを食べ終えるとタバコを取り出して一服し、ぞろぞろ歩いてこちらを警戒しながら通り過ぎる小学生の列を眺めていた。
さすがに愚鈍な私も「通報されるかな?」と思い始め、それはそれで面倒だからのろくさと立ち上がり、まだ時間には早いが啄木新婚の家にノロノロと戻った。
そこへ運良く開館しに通勤(?)してきた関係者(話を聞くと「盛岡啄木会」の有志の方々が施設を維持・管理しているとのこと)に出くわし、互いに驚いてほんの1~2分立ち話をするや「すぐ開けますから」と、時間より早めに入らせてくれることに。
施設に入る前に玄関の表札を撮ってみたが、盛岡城址公園(岩手公園)で撮影した時のフラッシュが有効のままになっていたらしく、外が明るくなっていたからフラッシュには気が付かなかった。
写真は完全にハレーションで一部が飛んでしまっているが、表札には啄木の本名「石川
施設を開けてくれた「盛岡啄木会」の人は、定年退職してまだ数年といった、60を少し出た感じの優しいオジサンで「こんな朝から啄木ファンが埼玉から訪ねて来るとは思わなかった」と、嬉しそうに笑いながら招じ入れてくれた。
入館料は無料で、学校の社会科見学のような団体の場合は事前連絡が必要なことを言っていたような気がするが、普段はそんなに訪れる人が多くないようなことも言っていたと思う。
入口(玄関)の襖を開けて入るとすぐ、写真の6畳間になる。
この写真の向かって右側にテーブルが置いてあって、スタンプ台が置いてあったように記憶しているが、なんせ今から30年も前のことで記憶がアイマイになっているから、記憶違いによる間違いはご容赦願いたい(間違い等の指摘はコメント欄にお願いします)。
そして写真の向かって左側に部屋が見えているが、確か10畳ほどの広さだったと思う。
「盛岡啄木会」の人は中に入るなり、この左側の襖を開けて中に入り、さらに奥の部屋の襖を開けたようで、すぐ戻って来て「私は奥の事務所にいますので、ご自由に見学して下さい」と、事務所(この家の中にあるはずだが、どこだったのだろう?)に引っ込んでしまった。
恐らく出勤(?)時の作業なり用事があるのだろう、私は「そうか」と思い、今しがた開けられた写真左の部屋に入ってみた。
部屋の中に入ると、すぐに奥にある写真の床の間が目に入った。
啄木の詩集『一握の砂』に収録されている詩が3幅、掛け軸として掛けられている。
その下に(写真では白く飛んでしまっているが)婚約時だったか結婚時だったかの啄木・節子の写真が飾られ、その前に湯呑み茶碗と小さい茶碗が置かれている。
写真だと右の掛け軸の詩が読みにくいから、右からそれぞれ詩を書き出してみよう。
やはらかに柳あをめる
北上の岸邊 目に見ゆ
泣けとごとくにふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかなはたらけど
はたらけど猶わが生活 楽にならざり
ぢっと手を見る
念のためルビを振っておいたが、どれも有名な詩だから、中学の国語か高校の現国の授業で習った覚えがあるだろうと思う。
ちょっとだけ自分のことを書くと、私が啄木に興味を持つキッカケになったのは、実はこの「はたらけど/はたらけど猶わが
私は小5(10歳)の時「将来は絶対プログラマーになる!」と心に固く決意し、小学校の卒業文集の「将来の夢」欄に「歌って踊れるプログラマー」と書いた。
中学生になって本格的にパソコンにのめり込んで学業を放棄し出すと、「本当に将来、プログラマーになれるんだろうか?」と不安に思うようになり、余計に学業を放棄して学校に行かず、パソコンにのみ全力で取り組んでいた。
父が病床に倒れていたのもあり、太宰の『人間失格』に出会ったのは運命的(運の尽き?)だったが、この詩を含め啄木の詩には切実に胸に響くものがあった。
高校に入学すると引き続き文学では太宰に夢中だったが、坂口安吾にも同じぐらい夢中になり、詩人では啄木の他に中原中也と立原道造が特に好きで読んでいた(中也の影響でランボーも読んだ)。
と、まぁ、これらの作家ラインナップは如何にも文学ミーハーな若造のそれだが、多少の作家の違いはあっても、高校生ぐらいだとこんなモンだろう。
本人は至って真面目で自身がミーハーなどとは露も思わず、「いづこへ」(岩波文庫『風と光と二十の私と・いずこへ』所収)を読むと安吾が啄木を文学と同時に落伍者として愛していたと知り、心の中で快哉を叫んで「理解者現る」と感激していたものだ。
私のことはともかく、写真は床の間を正面に見て右手にある部屋で、床の間がある部屋と同じか、少し小さいような気がしたから、8畳ぐらいだったろうか。
写真が残っていないということは、特に撮るべき何物もなかったからだと思う。
元の6畳間に戻ると、奥から「襖の奥に啄木の書斎があるから、ぜひ見て行って下さい」と声がした。例の「盛岡啄木会」の人だ。
啄木の書斎は見たいから襖を開けると同じ6畳間で、掛け軸がいくつか掛かっていて、その下に妻・節子の愛用品だった琴が展示されている。
写真を撮りながら「ここが啄木の書斎か?」と思っていると、さらに奥から「その奥が啄木の書斎です」と声がする。
え?と思ってさらに襖を開けると四畳半があって、なるほど部屋の奥に啄木が使っていたらしい古い机が置いてある。
その机の右横には今まで見たこともない小さくて可愛らしい囲炉裏があり、火鉢も置いてあって狭いながらも快適そうな部屋だな、と感心しながら写真を撮った。
この写真は30年前の若い私だが、記念に撮っておきたかったので(「盛岡啄木会」の人を探すのも、呼んで煩わせるのも面倒なので)カメラのセルフタイマーで工夫して撮ったものだ。
この古く小さい机の上には花瓶に造花が飾られ、大学ノート1冊とボールペンが1本置いてある。
大学ノートは記念館等によくある自由帳や雑記帳のようなもので、訪問者がめいめい感想なんかを自由に書いていて、斜め読みした程度で内容はとっくに忘れているが、「啄木さん来ましたよ」みたいな内容が日付と名前を添えて書かれてあったように思う。
私も何か書いたんだか、何も書かなかったんだか、やっぱり忘れているが、大学ノートを広げただけで机の半分を占めるような小さな机で、高さも低いし奥行きも現在の事務机の半分もない。
啄木の身長がどれぐらいだったのか、正確な数字は残っていないと思うが、文科省「明治33年以降5か年ごと学校保健統計」によれば、明治19年生まれの啄木が満18歳の明治36年で平均身長は160センチだと分かる(ちなみに啄木は19歳で処女詩集『あこがれ』を出版し、その翌年の20歳で堀合節子と結婚してこの「新婚の家」に一家を構えた)。
仮に啄木の身長が160センチだったとしても、やはりこの机は窮屈だったと思うが、写真の通り身長183センチの私からすればまるで「子供の机」だ。
机を正面に見て右側に「啄木 節子の部屋」と木札が柱に掛かっていて、戸を開くと畳が2枚敷いてあるだけで「何だこりゃ?」と思った。
藤子不二雄の2人が富山から上京して最初に借りた下宿が2畳間だった(※2人で2畳間に住んでいた)のは知っていたが(蝸牛社『トキワ荘青春物語』参照)、ここが夫婦の寝室だったのか、何もなかったから写真は撮らなかったが、今にして思えば撮っておけば良かったと思う。
話を再びこの書斎に戻すと、啄木がこの新婚の家に住み始めたのが1905(明治38)年6月4日で、9日には地元の岩手日報に随筆『
その『閑天地』の中に「我が四畳半」があり、新婚の家と書斎の四畳半について書いているのは知っていたものの、文庫化されていなくて読むには全集を買うか、図書館で借りるしかなかった。
ゆえに当時も今も私はその作品を読んでいないのだが、実は本稿を書いていてふと思い出し、試しにAmazonで検索したらヒットした。
青空文庫で検索したらやはりビンゴ!で、本の購入は無料の青空文庫を読んで判断してみて欲しい。
写真は玄関の様子で、私のボストンバッグは写真の位置に置いていたのだ。
撮るべき写真は撮った(と思った)し、携行しているB5ノート「聖地巡礼の旅 H.7.20~23」にスタンプを3つ全部押したことだし、さて、青森の斜陽館に向かおうと思った。
そこで、いつもより早い時間に施設を開けてくれたお礼を言おうと思ったが、どこにいるか分からないので「どうも、ありがとうございました」と大声で言ってみた。
すると、どこからかアタフタと「盛岡啄木会」の人が出てきて、あれ?お見送りしてくれるの?と思ったら、「
え?渋民って啄木の生まれ育った場所に!?と思っていると、「啄木一家はこの『新婚の家』にはほんの3週間しかいなかったし、どうやら熱心な人のようだから、渋民に『石川啄木記念館』があるのでぜひ行った方がいい」というようなことを仰る。
当時はスマホどころかガラケーを持っている人もそんなに多くない時代で、私はフリーランスだったからいち早くドコモのガラケーを持っていたが、まだiモードすらサービスを開始していない頃だ。
何が言いたいかというと、未知の場所(観光地や観光施設)に行くには分かるまで人に聞くか、旅行ガイド系の本もしくは雑誌を見て行くしかなく、要するに怠惰で怠け者の私からしたら激しく面倒なのである。
そこで素直に 激しく面倒 行き方が分からない旨を言うと、「盛岡駅で
私は”啄木の生まれ故郷=渋民村=田舎=遠い”というイメージが強かったが、話を聞くとそうでもないようだし、時間の関係から花巻に寄って宮沢賢治の足跡を辿るのは諦めていたから、さらに啄木の足跡を辿るには丁度いいかも知れないと思った。
そんなワケで、アッサリ予定を変更して石川啄木記念館に向かうことにし、再度お礼を述べて盛岡駅に戻った。
撮った写真はギャラリー形式で次の章にまとめておこう。
コメントはありません。 Comments/聖地巡礼の旅/1995/0721-2