盛岡で石川啄木の足跡を辿る 盛岡城址公園(岩手公園)


タグ聖地巡礼の旅, 1995(平成07)年, 太宰治没後55年, 寝台特急, B寝台, 石川啄木, 盛岡


 
聖地巡礼の旅 1995(平成07)年07月当時の津軽鉄道「金木駅」
 

1995(平成07)年07月21日 早朝  

早朝05:00過ぎ、ふと目覚めて車両の連結部に行って顔を洗い、浴衣から普段着に着替えた。
05:31、寝台特急「はくつる」が盛岡駅に到着。ボストンバッグひとつぶら下げて降りる。

盛岡駅のプラットフォームの様子

早朝のためか若干寒い感じがしたが、乗降客はおらず、駅には駅員さんが何人かいたぐらいで閑散としている。

今はなき豊北本線寝台特急「はくつる」

私が乗っていたB寝台車両

青森に向かう「はくつる」をお見送り

慌ただしい出発で乗っていたB寝台車両の内部や外観が撮れなかったため、せめて外観だけでもと思ってシャッターを切った。
改札を出るために駅構内をウロウロしたが、早朝だから旅客はほぼいなくて、駅の売店も閉まったまま、本当に閑散としている。
とりあえず、啄木新婚の家や、盛岡城址公園(岩手公園)を見学したかったので、盛岡駅北口に出て盛岡駅を振り仰いだ。

盛岡駅「もりおか 啄木」

やっぱり盛岡といえば啄木なんだな」と思うと、駅のロータリーに啄木の歌碑がある。

盛岡駅ロータリーにある石川啄木歌碑

写真では非常に分かりにくいが、次のように彫られている。

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

石川啄木一握の砂

啄木は旧制盛岡中学を中退後、非常にザックリ省略するとドタバタしながら盛岡で新婚生活を送るが、母校の渋民尋常小学校に代用教員の職を得て渋民村に戻り、「日本一の代用教員」を自負するまでになる。
そしてこれも非常にザックリ省略すると、父の一禎が渋民村での住職再任を断念して蒸発したのを機に、啄木は代用教員を辞めて単身函館に渡る。
函館から札幌、小樽、それから釧路に職と創作拠点を移すが、いずれもうまく行かなかった。
中央文壇から遠く離れた釧路で新聞記者の生活を続けることに焦燥感を募らせ、創作生活に入るために新聞社をバックレて単身上京するも、不義理な借金を重ねながら都内を転々とすることとなる。
その啄木が望郷の思いを書いた詩であり、また、実際に都落ちして故郷の山を見た感慨でもあっただろう、啄木の生涯を想うと胸を打つ詩だ。

北上川に架かる開運橋

駅のロータリーを出て右側には大きな開運橋があり、たっぷりとした水量を湛えた北上川に大きなアーチを描いて架かっている。
早朝から曇天でくすんだ写真になっているのが残念だが、駅の近くなのにこんなにも自然が豊かで、都市化している街も珍しいと思った。

開運橋より上流の旭橋を望む

開運橋を渡り始めると、ようやく陽が昇って来た。
足を止めて北上川が陽を受けて水面が光る美しさに見とれながら、上流に架かる旭橋を撮ってみた。

盛岡城址公園(岩手公園)  

現在地から一番近いのは啄木新婚の家だが、まだ6:00前だし、当たり前に開館はしていない。
そこで、道順からすると遠回りになるが、先に盛岡城址公園(岩手公園)を回ってから行くことにした。
『ブルーガイドバック東北』を開いて盛岡城址公園までの行き方を地図で調べるが、私はロクに地図も読めない(ヲトコ)なので、「多分、コッチだろう」と適当に向かった。と言っても、目指す公園は開運橋を渡って信号を斜めに右折した大通りの一本道なので、迷いようがない。

盛岡城案内板

確か盛岡駅から歩いて20分ぐらいだったろうか、アッサリ盛岡城址公園(岩手公園)に着いた。
どっから中に入ったらエエんですのん?状態でこの公園の案内板がないかを探していたら、この案内板があった。
写真では分かりにくいので書き出してみよう。

 国指定史跡 盛岡城 昭和12年4月17日指定 所在地 盛岡市内丸1

 盛岡城は、北上川と中津川の合流点に位置する丘陵を利用して築いた
要害の地で、盛岡南部氏20万石の居城である。
 盛岡城址は、石塁の美をもって名高く、本丸、二の丸、三の丸を囲む
石垣は、すべて盛岡周辺の花崗岩をもって築きあげている。
 築城を計画したのは信直(盛岡藩開祖)で豊臣秀吉に起工を許可され
たのは慶長3年(1598)であった。続いて、その子利直(盛岡藩初代藩
主)の代にかけて工事が進められ、寛永10年(1633)重直(盛岡藩二代
藩主)の時に完成した。以後明治維新の利剛(盛岡藩十四代藩主)まで
広大な藩領の中心となった。明治7年(1874)、城内の建物などは払い
下げられ、取り壊された。明治39(1906)年9月、岩手公園となり、現
在にいたった。     指定史跡面積 122,178㎡ 所有者 盛岡市

駅徒歩20分」という立地にお城がある(あった)というのは驚きだが、明治維新でお城がお取り潰しとは。何とか残せなかったんかな?
私の場合は世界史がそうなんであるが、日本史でも中世(戦国時代)にはサッパリ興味がないものの、城趾とは言え初めてお城と名がつく場所に来たので、興味から多少は興奮していた。
目的は啄木の歌碑だが、時間もあるし、疲れない程度に散策してあちこち写真に収めようと思ったのである。
ともあれ、まず向かうのは目的の啄木歌碑だ。

啄木歌碑案内板

前述の盛岡城案内板もそうだが、早朝かつ曇天でまだちょっと薄暗かったため、フラッシュを使って写真を撮ったが、まさかこんな写りになっているとは思っていなかった。
当時はフィルムカメラの時代だから仕方がないし、何枚も同じ案内板を撮るとフィルムと現像代がもったいない。それにカメラ撮影が本職や趣味の人でなければ、私を含め普通の人は普段から写真を撮る習慣がない。そういう時代だったのだ。
やはり画像では何が書いてあるか分かりにくいので、書き出してみよう。

                啄木歌碑

 少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の
夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学は内丸通りに在り、岩手
公園とは200メートルと離れていなかった。
 この歌碑は、昭和30年10月、啄木誕生70年を記念して盛岡啄木会の協力で建てられた
ものである。ここは数年前までは岩手山を遠望することができ、盛岡市内も見おろせる
風光の地であった。
 歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書である。

啄木は26歳の若さで夭折しているが、生涯で一体どれだけ金田一京助(旧制盛岡中学の先輩)から借金したのやら。
通常こういった文学碑や歌碑は、無理にでも本人の字を探し出して拾って彫り込むモノだが、それだけ啄木の直筆が残っていなかったんだろう。
歌碑の建立は啄木が亡くなってかなり経っているのに、啄木との腐れ縁で金田一京助が書を提供したのだと思うが、友情に厚く優しい人だったに違いない。

啄木歌碑

これも画像では分かりにくいので(以下略)

不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心

石川啄木一握の砂

不来方(こずかた)は盛岡の古い呼称で、私が旅行した当時は盛岡城址を普通に不来方城址(こずかたじょうし)と呼んでいた気がする。
歌碑の案内板にある通り、旧制盛岡中学の生徒だった啄木は、学校をバックレてこの場所で読書したり、昼寝をブッこいていたようだ。
詩にある「十五の心」だが、中学3年生(旧制中学は5年制)だった啄木は短歌を志望し、クラスメートに先輩である金田一京助を紹介してもらい、与謝野鉄幹が主宰していた詩歌中心の文芸雑誌『明星』の蔵書を全部借りて読んでいたりする。
また、当時としては非常に珍しく後の妻となる堀合節子と自由恋愛で交際をしており、この場所で少年・少女らしく夢や希望を語り合っただけでなく、互いに愛を囁き合ってもいたであろう。
文学(短歌)への傾倒や節子との恋愛の他に、中学では教員間の紛争から生徒の間でストライキが発生し、あろうことかその首謀者の一人と疑われる等、啄木は次第に学業よりも創作活動の方に精を出していった。
だから学校をバックレてここでサボッていた啄木は、「空に吸はれし/十五の心」だったのだろう。
啄木は進級しても学校をサボリ続け、5年生の時の期末試験でカンニングがバレて、結局は中退しちゃうんだけどね。
私が啄木の詩を一番よく読んだのは高1の時で、この詩には時代が違えど同じ歳の生徒として大いに共感したものだ(旧制中学3年生は現在の高校1年生に相当する)。
別に啄木のマネをしていたワケじゃないが、私も途中で学校をバックレることがあったから、この詩を読んで「啄木やるじゃんw」ぐらいには思っていた。
まぁ、啄木とは根本的に理由が違うが、私も中退しちゃうんだけどね。ァ '`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、

新渡戸稲造碑

公園内をテキトーにブラついていると、写真の新渡戸稲造碑に出くわした。
この写真の字は読もうと思えば読めなくもないが、やはり書き出しておこう。

願はくはわれ
太平洋の橋
とならん

     新渡戸稲造

新渡戸稲造と言えば、私の世代では5千円札の肖像として馴染みがあるほか、青森県に十和田市立新渡戸記念館があるから、私はてっきり青森の出身だと思っていた。
碑にある「願はくはわれ太平洋の橋とならん」は、確か東京英語学校(後の旧制第一高等学校で現・東京大学教養学部)に入学して英語の勉強をしていたところ、教授に「なんで英語を勉強するん?」と聞かれた時に「自分は可能なら太平洋の橋となりたい。日本の長所を西欧に紹介し、西欧の長所を日本に紹介する橋渡しの役を務めたいから、英語に精通する必要がある。(`・ω・´)キリッ」と答えたとか。
実際に『BUSHIDO: The Soul of Japan』を英語で書き、当時のアメリカで出版するやベストセラーになってフランス語やドイツ語等に翻訳されたのだから、新渡戸稲造は本当にスゴイ。もっと言えば、現在でも買って読めるというのは驚きだ。
しかも、教育者かつ『BUSHIDO: The Soul of Japan』で世界的に有名だからという理由で国連の事務次長に選ばれて就任するのも想像を絶するが、国連で人種差別撤廃を提案したのが新渡戸稲造だったのにも驚く。
これらの知識は後日帰宅して調べた内容だが、そうか、盛岡市の出身だったのねん。
とまあ、前述したように疲れない程度に散策して写真を撮り、啄木新婚の家に向かうことにした。
撮った写真はギャラリー形式で次の章にまとめておこう。

写真ギャラリー 盛岡城址公園(岩手公園)  

盛岡城案内板
啄木歌碑案内板
啄木歌碑
新渡戸稲造碑
宮野小提灯句碑案内板
宮野小提灯句碑
 


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