太宰治文学忌

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※文中敬称略

なぜ太宰治の墓が禅林寺(ぜんりんじ)にあるのか?  

禅林寺

太宰治の遺骨は、1948(昭和23)年07月18日に黄檗宗禅林寺に埋葬された。
どういうワケか、桜桃忌を説明しているネット記事の中には「太宰治のお墓は、元は違うお寺にあったが、そのお寺が被災したことで禅林寺に移転してきた」といったような、明らかに間違った記述が散見される。
また、「森鴎外のお墓は、元は別のお寺にあって禅林寺に移転してきた」とあったりするが、これは正しく説明していない記事が多いようだ。
森鴎外の墓は元々東京都墨田区向島の弘福寺にあったが、関東大震災で寺が全焼したため、1927(昭和02)年に禅林寺に改葬された(出身地の島根県鹿足郡津和野町の永明寺にも改葬されている)。
禅林寺と鴎外の墓に関しては、太宰自身が短編「花吹雪」(「黄村(おうそん)先生」シリーズのひとつ)で次のように書いている。

うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。

出典:太宰治「花吹雪」(新潮文庫『津軽通信』所収)
初出:1944(昭和19)年08月20日(肇書房『佳日』)

※太宰が東京帝国大学(現・東京大学)に入学するために上京したのは1930(昭和05)年04月で、三鷹に転居したのは1939(昭和14)年09月01日

美知子夫人の『回想の太宰治』に太宰の墓についての記述はないが、上記「花吹雪」の太宰の意を汲んだのは明白で、鴎外の墓の斜め前に墓を建てている。
また、墓石には戸籍名ではなく「太宰治」と彫られているが、太宰の遺体をそのまま自宅にあげることを拒絶した美知子夫人としては、作家として墓を建て、埋葬することにしたのではあるまいか。
つまり、自分が亡くなっても太宰と一緒の墓に入ることを拒否したのだろう。
事実、美知子夫人が亡くなった1997(平成09)年の桜桃忌で、向かって左側に真新しい「津島家之墓」が建っていたのに驚いた記憶がある。

桃忌(おうとうき)(6月19日)  

禅林寺 太宰治墓前

太宰治は1948(昭和23)年06月13日の深更、玉川上水に山崎富栄と入水した。享年39(満年齢では38歳)。
太宰の葬儀後、友人知己の間で毎年一度、太宰を偲ぶ会を持とうという相談が持ち上がった。
太宰と富栄の遺体が引き上げられたのが同月19日で、奇しくも太宰の誕生日であったことから、同郷の作家で太宰の友人でもあった今官一により、太宰の晩年の作品「桜桃」(新潮文庫『ヴィヨンの妻』所収)から「桜桃忌」と名付けられた。
厳密に「忌日=命日」とするならば、6月19日は命日ではないし、戸籍名・津島修治の戸籍簿には「昭和23年6月14日午前零時死亡」となっている。
なお、第1回の桜桃忌亀井勝一郎が中心になり、実務面を小山清ら太宰の門弟たちが担当し、1949(昭和24)年06月19日に太宰の友人・知己・先輩・近親者の内輪だけで墓前に酒を注いだりする「墓前祭」と、その後に禅林寺の庫裏の座敷で「偲ぶ会」が開催された。
明確に何年と断定が出来ないが、昭和30年代前半のある年、太宰ファンが墓前に大勢集まるようになり、檀一雄が内輪だけの「偲ぶ会」に太宰ファンを招き入れたことから、徐々に桜桃忌は太宰の内輪だけの「墓前祭」「偲ぶ会」ではなくなり、全国から太宰ファンが馳せ参じる忌日となった。
1965(昭和40)年以前、桜桃忌筑摩書房の主催であったが、「出版社という企業が主催していることに、批判的な声が強まってきた」(出典:長篠康一郎『太宰治 文学アルバム』)という事情があり、以降は太宰の門弟を中心に「桜桃忌世話人会」によって運営された。
しかしながら、桜桃忌の運営を担った「桜桃忌世話人会」は、関係者の多くが高齢または故人となったため、1992(平成04)年に解散している。
それでも太宰の没後70余年を経る現在、「桜桃忌」は俳句の「夏」の季語にもなっているほど、一般に浸透して知られている。
個人的に1990(平成02)年から毎年桜桃忌に参加(墓参)しているが、禅林寺僧侶による墓前の読経(14:00~)は2018(平成30)年(太宰治没後70年)を最後に行われていない。
以前、禅林寺の方から(言葉はそのままではないが)「ウチは太宰さんだけの寺ではないんです」と聞いたことがあったが、積年のご苦労があったと推察する。

宰治生誕祭(だざいおさむせいたんさい)(6月19日)  

芦野公園 太宰治文学記念碑

太宰治の生家「斜陽館」がある青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市金木町)では、太宰の死後2ヶ月後(1948(昭和23)年08月)に町の有志による「太宰治を語る会」が催され、以後、毎年続いたようだ。
桜桃忌」としては、1968(昭和43)年06月19日(没後20年)に初めて金木町で開催され、以降、場所は県内を変遷したものの、1975(昭和50)年に金木町に定着した。
しかし、生誕90周年となる1999(平成11)年に「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という遺族からの要望もあり、それ以降、平成の大合併以後の五所川原市では「太宰治生誕祭」に名称を改め、毎年6月19日に太宰治文学碑のある芦野公園にて式典を開催している。
芦野公園の太宰治文学碑の近くに、太宰治像が建立されたのは2009(平成21)年(太宰治生誕100年)で、太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)が公開されたのも同年だと記憶している。
なお、弘前ペングラブでは、毎年桜桃忌太宰治生誕祭)の前日である18日に「太宰治生誕前日祭」を執り行っている。

梨桜桃忌(やまなしおうとうき)(6月19日直前の日曜日)  

御坂峠 太宰治文学碑

御坂峠の天下茶屋近くにある、太宰治文学碑(「富士には月見草がよく似合ふ」)の前で献花の後、天下茶屋で「偲ぶ会」(太宰の作品朗読や講演会)が執り行われている。
山梨桜桃忌は「山梨桜桃忌の会」が主催している。

百合忌(しらゆりき)(6月13日)  

永泉寺 山崎家墓前

1966(昭和41)年6月、山崎家の菩提寺である永泉寺において、山崎伊久江を中心としたお茶の水会によって営まれた18回忌法要と「山崎富栄を偲ぶ会」で、長篠康一郎(ながしのこういちろう)が「富栄忌(とみえき)」を提案し、採択された。
翌1967(昭和42)年、桜桃忌に先立つ命日の6月13日に永泉寺にて、19回忌法要(第2回富栄忌)が営まれた。
伊馬春部桜桃の記』に主演した金子信雄丹阿弥谷津子は、桜桃忌に出席する前に、片手落ちにならぬように永泉寺に詣でてから、禅林寺に向かったようだ。
その際、永泉寺安田弘達(やすだひろたつ)師によれば「丹阿弥さんは、亡くなられた方は、このお花が一番ふさわしい方のように思えて・・・」と、沢山の白百合の花束を墓前に捧げられたという。
その故もあり、1968(昭和43)年の第3回富栄忌からは「白百合忌」と改称された(出典:長篠康一郎『太宰治 文学アルバム』)。
1967(昭和42)年以降は、山崎家遺族による年回忌法要とは別に、太宰治山崎富栄、太宰を愛し支えた田部あつみ(戸籍名:田部シメ子)、小山初代と共に、命日である6月13日に永泉寺において御供養が営まれるようになった(後に太田静子も供養に含まれるようになった)。
長篠康一郎(ながしのこういちろう)の存命中は、太宰文学研究会の有志によって「白百合忌」が開催され、会費は各自で白百合の花一本を持ち寄るのみだったようだ。
長篠康一郎亡き後(2007(平成19)年02月16日病没・享年80)も、太宰文学研究会有志によって6月13日前後の日曜日に「白百合忌」が開催されていたようだが、確認したら公式サイトが消滅しているため、太宰文学研究会は解散されたのかも知れない。

桐忌(あおぎりき)(7月23日?)  

船橋市民文化ホール 太宰治文学碑
出典:公益社団法人 千葉県観光物産協会

太宰治は、1933(昭和08)年01月に今官一の紹介で同人雑誌『海豹(かいひょう)』に加わり、創刊号に「魚服記」を発表、好評を得て「思ひ出」を発表し、新人としてスタートする。
次いで季刊文芸誌『(ばん)』にも「葉」と「猿面冠者」を発表し、注目を浴びるようになった。
その後、同人雑誌『青い花』を創刊するが、創刊号を出版しただけで続かず、失敗。作品発表の場を失った太宰と『青い花』同人は1935(昭和10)年03月に創刊された『日本浪漫派』の第3号から合流し、太宰は「道化の華」を発表した。
新進作家としてデビューしかけた太宰だが、大学卒業を引き伸ばして生家から仕送りを続けさせていたものの、1935(昭和10)年03月がタイムリミットであった(小山初代を芸妓から落籍・結婚を認める代わりに、分家除籍する旨を長兄の津島文治と「覚書」を取り交わしている)。
大学の講義に出席しておらず、1単位とて取得していない太宰は、窮余の一策として都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けたが失敗。3月中旬頃に鎌倉山で縊死自殺を図ったが、未遂に終わった(とされている)。
郷里に連れ帰ると言う長兄・津島文治井伏鱒二津島文治と学部は違うものの、早稲田大学に同期入学)と檀一雄が懇願し、あと1年だけ仕送りを続けることになったが、直後に太宰は急性盲腸炎で阿佐ヶ谷の藤原病院に入院、手術後腹膜炎を併発して重体になってしまう。
入院中の約1ヶ月間、患部の苦痛を訴えて使用したパビナールが習慣化してしまい、長兄の友人が病院長をしている世田谷の経堂病院に転院・2ヶ月入院するも、密かにパビナールを使用し、かえって中毒を悪化させる結果となった。
1935(昭和10)年06月30日に同病院を退院後、太宰と内縁の妻であった小山初代と共に北芳四郎(きたよししろう)(品川区上大崎で洋服仕立業を営む警視庁出入りの御用商人で、東京における津島家の御用商人でもあった)の計らいで、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿1928(現・船橋市宮本1-12-9)の借家に転居する。
太宰のいわゆる「船橋時代」は、1935(昭和10)年夏から翌年秋にかけての約1年4ヶ月であり、芥川賞事件や処女作品集『晩年』刊行の果たせない希望、そしてパビナール中毒を治すために板橋の武蔵野病院(精神科病院・警視庁麻薬中毒救護所を併設)へ入院させられる等、「失意の時代」だった。
船橋市民文化ホールにある太宰治文学碑には、

    太宰 治「十五年間」より

 たのむ! もう一晩この家に寐かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。

          船橋市長 大橋和夫
   昭和五十八年十一月三日
         寄贈 船橋中央ライオンズクラブ

と彫られている。
恐らく「青桐忌」の由来は、上記「十五年間」(新潮文庫『グッド・バイ』所収)の「庭の青桐(あおぎり)も僕が植えたのだ」にちなんだモノだと思うが、その青桐の子孫が太宰の旧居後(1982(昭和52)年12月、太宰の旧居があった土地が整理された)の向かいの家の庭に発見された。
太宰の旧居に植えられていた夾竹桃(きょうちくとう)は、太宰治文学記念碑の建立と共に船橋市民文化ホールに植栽されており、発見された青桐の子孫は2010(平成22)年03月06日に同市民文化ホールに植栽され、セレモニーが行われている(太宰治文学碑を正面に見て左側に植栽された・画像左側)。
青桐忌」は「初代忌」とも言い、どうやら小山初代の命日である、7月23日前後に行われているようだ。
現在は「船橋太宰会」(旧・ディスカバー船橋実行委員会)が主体となって活動をされているようだが、ネットに情報がないので詳細は不明。
なお、船橋での桜桃忌太宰治生誕祭)は、この太宰治文学碑前で行われているようだ。

前青桐忌(ひろさきあおぎりき)(7月23日?)  

清安寺 小山家墓前

2019(令和01)年06月(太宰治生誕110年)、小山家の菩提寺である清安寺の荒れた小山家の墓地を「船橋太宰会」海老原義憲(えびはらよしのり)会長が自費で整え、小山初代の顕彰碑(画像右側)を建立した。
「船橋太宰会」では、同年から「弘前青桐忌」を開催している。

参考文献  


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