太宰治ゆかりの三鷹の跨線橋と武蔵野の夕日


タグ管理人「一日の労苦」, 2021(令和03)年, 三鷹, 陸橋, 跨線橋, 三鷹電車庫跨線橋, 田村茂, 東京八景, 人間失格, 写真ギャラリー, 古本カフェ・フォスフォレッセンス, 太宰ラテ, PukiWiki用画像スワイプ表示プラグイン


 
管理人「一日の労苦」(金木小学校 太宰治「微笑誠心」碑)

2021/10/27

かくして三鷹の跨線橋は失われることになった  

このところ、10月になってようやく秋めいて来たかな?と思っていたら、秋をスッ飛ばしていきなり冬かよ!?な天候である。
それでも先日の日曜日は天気も気温も良い秋晴れで、バイクに乗ってちょっと遊びに行くには丁度良い。そこで、撤去が決定したと伝えられている、三鷹の跨線橋(こせんきょう)へ行ってみようと思ったのだ。

読売新聞や朝日新聞の既報の通り撤去の危機が伝えられていたが、9月7日の三鷹市の公式発表により、撤去が決定した。
(くだん)の跨線橋は当時の鉄道省が1929(昭和04)年に作ったモノで、戦後の国鉄を経て現在のJR東日本が維持管理をしているが、JR東日本の言い分としては「跨線橋は鉄道事業施設と言うよりは生活道路として利用されている」から、公共施設として三鷹市が管理するべきとして、数年前から三鷹市と協議をしていたようだ。
背景には建設から90年も経過している老朽化の問題と、耐震性能が現在の基準を満たしていない上に、すでに代替施設(堀合地下道)があるので撤去するのが(本当なら)順当だという、もっともな理由がある。
しかしながら、太宰治の(ゆかり)もあり、鉄道遺構として文化的価値もあることから、JR東日本としては三鷹市へ無償譲渡を申し入れていたようだ。
この跨線橋の撤去について地元の三鷹市民の反応は分からないし知らないが、恐らく無関心かつ冷淡なモノだろうと思う。
いつまでも昔に住んでいた頃の記憶を引きずるつもりはないのだが、今までの経緯から三鷹市のやりそうなことは大体読めるし、地元市民もさして太宰治や文化遺構に関心がないのが本当だろう。
ネックなのは跨線橋の維持管理費で、年間3,500万円かかるそうだ。
非常に意地の悪い書き方をすれば、昨年からのコロナ茶番でリモートワークが推奨され、緊急事態宣言等の追い打ちもあってJR各社は大幅な減収減益であるし、そもそも超少子高齢化で人口減少社会である日本の現状を考えれば、今後鉄道事業で右肩上がりの増収増益が望めるハズがない。JR東日本にしたところで民営化して30年も経つと、根本的な親方日の丸体質は抜けないクセに、民間ばりの営利企業として権利は主張するやな。
さらに悪意を以て書けば、三鷹市としてはいくら市の文化遺構であっても、地方自治体として予算に限りがある中で、年間3,500万円も維持管理費がかかる跨線橋に予算は割けない。
つまり、三鷹市と三鷹市民は「年間3,500万円を地元の文化財に投入出来ない」と判断したワケである。いや、さぞや苦渋の決断だったろう。しかし、年間3,500万円に屈したのには違いがない。
それで跨線橋の一部保存や、映像・画像・VR等のコンテンツで残そうというのは、まんま太宰治文学サロンや、太宰治展示室 三鷹の此の小さい家のやり口と同じだ。
そうやって三鷹市や三鷹市民は地元の文化を捨て、中途半端に文化らしきモノを残して後世に継承すればいいだろう。
まぁ、こんなのは三鷹市だけに限らず、日本中で行われていることなんだが、自称保守のネトウヨは誰も声なんか上げないやね。

さて、本稿の本旨ではない憎まれ口は、この辺にしておく。
ただ言えることは、「選挙に参加して投票には死んでも行け!」でしかない。

ともあれ、跨線橋の撤去が決定したと言っても、いつ撤去されるかは分からない。
三鷹市としては「JR東日本からの譲渡を受け入れない」と公式に発表したに過ぎないから、撤去するのは現在も維持管理をしているJR東日本次第なのだ。
恐らくJR東日本としては、年度末には何らかの結論を出し、次年度予算を計上してから計画と実際の撤去にかかるだろうから、どんなに早くても来年4月以降にならないと、撤去するにも時期は判明しないだろう。

太宰治と跨線橋

私も健全な(?)男の子であるから、電車にトキメキがないワケではないが、「鉄ちゃん」ほどの情熱のカケラは持ち合わせていない。
実際に武蔵野市関前に住んでいた頃でも跨線橋には特に興味はなく、当時も散歩がてらバイクでフラッと行ったことはあったが、別に何の感慨があったワケでもない。
太宰にしたところで、「眺めが良い」という理由で散歩がてら三鷹駅近くの跨線橋に友人や弟子を連れて行った程度だろうし、ことさら跨線橋に愛着があったワケでもないだろう。
上記の画像もそうだが、三鷹に住んでいた田村茂の撮影で、晩年の跨線橋での写真が海外で出版された文庫の表紙になるほど有名になり、「太宰治ゆかりの跨線橋」といったイメージが定着したのだと思われる。
だが、太宰治が自身の作品で跨線橋を書いただろうか?
むしろ、太宰としては同じ散歩するのでも茶店(酒が出る飲食店)がある井の頭公園の方を愛しただろうし、実際に「黄村先生言行録」等、作品にもたびたび書いている。井の頭公園の方が、いいのかしら?
言い方は悪いし、決めつけるワケではないが、三鷹の跨線橋のイメージは後世の太宰ファンの幻想だろう。
私の場合はこの跨線橋でもそうだが、普段使う駅の階段を上下する際に、今でも中2の時に初めて読んだ『人間失格』の衝撃を思い起こすことがある。

 恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
 また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。

太宰治『人間失格』第一の手記冒頭より

ちょっとだけ自分の事を書くと、当時はパソコンでプログラムばっかり書いてるパソコン少年で、月に一度は秋葉原に行っていた。その前は渋谷にあった東京都児童会館に通うラジオ少年でもあった。
今から思えば子供だし、電車に乗って出かけるのは非日常であり、駅に行くのでさえワクワクしていたから、この『人間失格』の記述は私にとって色々な意味で衝撃的だった。
当時から秋葉原駅や渋谷駅は長い事ずーっと工事に次ぐ工事で、あの複雑な駅の構内を彷徨い歩くのは楽しいものだったし、それに当時の有楽町線は、ある区間だけ地下鉄の電源の都合で車内の照明が全部落ちて真っ暗になるという時代で(その区間を過ぎると照明も回復する)、それも含め当時の私は楽しいイベントだぐらいに思っていたのである。
実に無邪気な子供だったが、家庭環境と高校受験の現実のツラさからどうにもならなくなり、手に取ったのが『人間失格』だったのだから、タマらない(笑)。
純粋無垢な(それでいて社会に順応出来ない)主人公が眉間を割られ、「人間失格」の烙印を押される文学に、熱狂しない方がオカシイだろう(と、当時の私は思ったのだ)。
まぁ、未だに私に賛同する変態太宰治ファンには出会わないが。'`,、('∀`) '`,、
それはともかく、私は撮り鉄や子供連れが多い跨線橋には、やはり特別な興味を持たない。
ただ先日の日曜日、失われることが決定した跨線橋に久しぶりで行き、その黄昏(夕焼け)をロマンチックに見たかったのだ。
太宰は「戸塚の梅雨。本郷の黄昏。神田の祭礼。柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。天沼の蜩。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。」と「東京八景」に書いたが、実際に夕焼けを狙って行ってみたものの、今やその武蔵野の夕陽は、眺めが良いハズの跨線橋からも満足に見ることが出来ないように思った。
国木田独歩や太宰治が生きていた頃の武蔵野の風景は、この撤去が決定している跨線橋の如くに、すでに失われているのだ。

それでは、私の下手クソな撮影で恐縮ではあるが、跨線橋の写真をギャラリー風に公開してみよう。
これは本サイトで採用しているPukiWikiで、私が開発したプラグインならではの機能である。

写真ギャラリー  

太宰治の写真はこの場所
ひび割れまくった案内板がある
老朽化しているので・・・
反対側の階段
近くで見るとこんな感じで老朽化している
跨線橋には見物人が多い
日本初の電気式時計を設置していて、私が若い頃も当時モノではないが時計はあった
跨線橋から立川方面を望む その1
跨線橋から立川方面を望む その2
跨線橋から新宿方面を望む
跨線橋の全長は約90m
跨線橋を渡った右側の階段
その反対側の階段

おわりに  

跨線橋を仔細に見ると、部材が引退したレールであることが分かる。
昭和の昔、駅舎でも引退したレールが使われていたモノだが、今では首都圏で見ることはない。それだけ今となっては貴重な文化遺産であると言えるが、鉄道ヲタクは何も言わないモノなのか、私には不思議でならない。

三鷹の古本カフェ「フォスフォレッセンス」の太宰ラテ

この後、古本カフェ・フォスフォレッセンスさんに寄り、名物の太宰ラテをいただく。
夕方になって寒くなってきたから、この絶妙な甘さの温かいコーヒーが嬉しく、美味しさにホッとした。

 


コメントはありません。 Comments/管理人「一日の労苦」/2021/1027




人気上位6ページ

今日の人気上位6ページ


ページトップボタン