太宰治が飲んだリンゴ酒の復活に寄せて


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管理人「一日の労苦」(金木小学校 太宰治「微笑誠心」碑)

2022/01/28

昨年の秋頃からだったと思うが、Facebookで「太宰が飲んだリンゴ酒再現プロジェクト」の投稿を見かけることがあった。
個人的にTwitterを含めSNSで遊んでるヒマはなく、もとより労力を割く気なんてサラサラないのだが、特にFacebookに関しては見切りをつけているため、昨年8月末で運営サイトのFacebookページ以外は、個人データと過去の投稿を削除して撤退してしまった。
とは言え、アカウントと運営しているFacebookページがある以上、全く見ないというワケでもないが、ちょっとした気分転換にはTwitterを眺めるようにしている。
そんな折、たまたまFacebookでリンゴ酒のクラウドファンディング(以下、「クラファン」と略)が始まるといった投稿を見たので、以前から書こうと思っていたネタもあり、「酒と太宰と誤解とデマと」をテーマに書いてみようと思ったのである。

ずっと謎だったリンゴ酒  

中学2年生で太宰文学にドハマリした私は、『津軽』その他の作品に登場する「リンゴ酒」なるものが、ずっと謎だった。
私の亡父が秋田の能代出身かつ大酒呑みだったので、晩年の父にリンゴ酒について聞いたことがあったが、「リンゴ酒? よく知らん」という話だ。その代わりに「太宰なんて読むんじゃない」と真顔で怒られたことを覚えている。
私の父は大正15年7月生まれの昭和元年式で、明治の頃から鉄工所を経営している、話を聞く分には富裕な家庭の長男であった。
父は戦前の家父長制度でなくとも、実家の鉄工所を継ぐべき跡取り息子でありながら、”長男あるある”で家業を継ぐのをイヤがったドラ息子であり、これもよくある話ながら勘当息子である。ゆえに、父の生前は父方の親戚とは一切没交渉で、後年になって色々と知ることになるのだが、それはまぁ、どうでもいい。
この父はアフォなほど酒を呑む人で、また、アフォなほど本や新聞を読む人だった。
今まで聞いていた話をざっと結合して整理すると、戦争末期に召集を食らい、秋田の山の中で重機関銃を担いでウロウロしてたら終戦になっていたとかで、戦後はどういうツテがあったのか、上京して亀戸に住んだようだ(私が結婚する前の戸籍の住所が亀戸の職業安定所だったのは、この理由らしい)。
そこで、秋葉原で米軍払い下げの真空管を商って大儲けしたものの、一緒に商売をやっていたパートナーが商売の資金を投機筋に突っ込んで全財産を失ったりと、中々ハードな人生を送ったようである。
だから戦後の太宰ブームと山崎富栄との入水自殺をリアルタイムで知っているし、後の三島由紀夫の事件もリアルタイムで、しかも同年輩の戦中派としてよく知り抜いていたハズだ。
私の父のことは論旨ではないので細かい説明は一切省くが、地理的にも時代的にも父が「リンゴ酒を知らない」というのも変な話だ、と思っていた。
そんな私もほどなくして酒の味を覚え、父と同じように大酒をかっくらうようになったのだから血は争えないと苦笑する他はないが、「リンゴ酒とはシードルのようなモンじゃろか?」と一方的に想像し、切り捨てたままにしていた。

シードル

シードルとは、ザックリ言えばリンゴを原料とするワイン(スパークリングワイン)で、フランス北部ノルマンディ地方の特産として知られる。
ちなみに非常に乱暴な言い方をすると、ブドウを原料としたワインを蒸留するとブランデーになるが、シードルを蒸留するとノルマンディ地方特産のカルヴァドスというブランデーになる。なお、カルヴァドスと名乗れるのはノルマンディ地方のリンゴを原料としたブランデーのみで、その他の地域や国で造られるブドウ以外を原料としたブランデーは、一般に「フルーツブランデー」とひとくくりにされる。
日本は長いこと日本酒(地方によっては焼酎)文化であり、それもハレの日(お祭りや年中行事などを行う特別な日)に呑むのモノであって、一般論として少なくとも明治期ぐらいまでは食事と一緒に酒を呑むという習慣はなく、元々日本において飲酒は食文化ではない。
それゆえ日本人一般の酒の知識というものほどアテにならないモノはなく、ワインやブランデーはブドウからしか作れない、と思い込んでいるフシすらある。
そもそも酒の歴史とは、余剰穀物とその発酵を利用した歴史であるから、ぶっちゃけブドウだろうがリンゴだろうが、コメやムギやソバからでも酒は作れるんである。
そこでリンゴ酒に話を戻すと、今でこそ青森と言えば「リンゴ県」のイメージだが、リンゴ栽培は1875(明治08)年に当時の内務省からリンゴの苗木3本が青森県庁に配布され、1877(明治10)年に弘前市の山野茂樹が初めてリンゴを実らせたことに端を発する。
それまでの(廃藩置県前の)津軽の名産はヒバの材木で、太宰の生家はヒバを贅沢に使った入母屋造りの建築で知られているが、戦後~超高度経済成長期の建築ラッシュが終わってしまうと、全国的に材木需要が激減し、青森がヒバの産地であることも忘れられてしまったようだ。
それはともかく、明治から昭和にかけて青森県でリンゴ栽培とその生産量が飛躍的に増大すると、当然ながら加工食品への応用を考えるし、「酒が作れないじゃろか?」と考えるのは自然な流れだ。
どうやら、太宰の作品に登場する「リンゴ酒」よりも前に、フランスはノルマンディ地方のシードルよろしく「リンゴのシャンパン」造りが試みられたようだが、ちょっと調べてみても文献が出てこない(私も何の本で読んだのか思い出せない)。
ともあれ、1941(昭和16)年に大東亜戦争で日米が開戦状態になると、コメや酒といった物資は帝国陸海軍に優先して供出することになるし、戦局が悪化すれば国内のコメ不足や酒不足が深刻になったであろうことは、容易に想像がつく。
そこで青森県だけで作られたのがリンゴ酒ではなかったか、と思われる。
本来ならコメで日本酒を造りたいところだが、酒を造るコメはないもののリンゴなら豊富にあるし、まさか戦地にいる日本軍にリンゴを供出する義務や必要はなかったに違いない。
つまりは「日本酒の代用品」であったと思うのだが、太宰も作中でリンゴ酒をあまり有難がってはいないようだ。

「実はね、」と医師はへんな微笑を浮べ、「配給のリンゴ酒が二本ありましてね、僕は飲まないのですが、君に一つ召上っていただいて、ゆっくり東京の空襲の話でも聞きたいと考えていたのです。」
 おおかた、そんなところだろうと思っていた。だから、こうして断りに来たのだ。リンゴ酒二本でそんなに「ゆっくり」つまらぬ社交のお世辞を話したり聞いたりして、窮屈きわまる思いをさせられてはかなわない。
「せっかくのリンゴ酒を、もったいない。」と私は言った。
「いいえ、そんな事はありません。どうせ僕は飲まないんですから。どうです、いま召し上りませんか。一本、栓を抜きましょう。」
(中略)
 お盆には、その蒲焼と、それから小さいお猪口が載っていた。私はリンゴ酒はたいてい大きいコップで飲む事にしていて、こんな小さいお猪口で飲むのは、はじめての経験であったが、ビール瓶のリンゴ酒をいちいち小さいお猪口にお酌されて飲むのは、甚だ具合いの悪い感じのものである。のみならず、いささかも酔わないものである。

出典:太宰治『津軽通信』所収「やんぬる哉」(新潮文庫, 1987(昭和62)年06月05日 8版, pp.117-118)

ここに、重要な記述が2点ある。
1点目は『リンゴ酒二本でそんなに「ゆっくり」つまらぬ社交のお世辞を話したり聞いたりして、窮屈きわまる思いをさせられてはかなわない』と述べている通り、太宰はリンゴ酒そのものを貴重だと思ってはいないようだ。
2点目は『私はリンゴ酒はたいてい大きいコップで飲む事にしていて、こんな小さいお猪口で飲むのは、はじめての経験であったが、ビール瓶のリンゴ酒をいちいち小さいお猪口にお酌されて飲むのは(以下、略)』の部分だ。
太宰にリンゴ酒を勧める、中学時代の同級生の医師は酒を呑まない人のようだから、「ビール瓶のリンゴ酒に小さいお猪口」なんて組み合わせでお酌をするが、リンゴ酒に発泡性があったかは不明なものの、少なくともビール瓶に詰められ、普通はコップで呑むような酒であったことが分かる。
そこで私は「リンゴ酒=シードル」を勝手に打ち立て、切り捨てたままにしていた。なぜなら、若い時は特にそうだったが、私は「酒を呑みながら何かを食べる」のがダメで、今でも基本的に食事は食事、酒は酒で楽しみたい方だから、食前酒や食中酒のシードルには興味がなく、むしろ食後酒のカルヴァドスの方が断然大好きで、シードルならカルヴァドスにしか興味はない。
ところが、長年謎だったリンゴ酒が、ついに再現されたのだ。

微力で些少だが、私もこのクラファンに参加して支援した。
果たして再現されたリンゴ酒はシードル寄りの酒なのか、はたまた日本酒の代用品だった日本酒寄りの酒なのか、今から届くのが楽しみで仕方ない。
蛇足ながら、戦後のカストリがずいぶんと後になって復活し、私も2000(平成12)年頃に購入して呑んだことがあったが、アレはクサイ上にマズくて呑めたモンではなかった。

太宰がアブサンを呑んでいた?  

リンゴ酒とはサッパリ関係ない話で恐縮だが、以前、たまたま読んだネット記事に、こんなバカげたデマが載っていた。
人間失格』の第三の手記にある「飲み残した一杯のアブサン」以下を引用し、記事でこう述べている。

太宰もまた、アブサンを愛飲する芸術家の1人でした。太宰は酒を飲むことについて「酒を呑むと、気持を、ごまかすことができて、でたらめ言っても、そんなに内心、反省しなくなって、とても助かる。」と随想「酒ぎらい」で語っています。絶えず繰り返してしまう自問自答に苦しんだ太宰は、酒の力を借りることで心の平静を保っていたのでしょう。

出典:「お酒が美味くなる?文学史を彩る聖なる酔っ払いたち」(P+D MAGAZINE・2016/04/22)より抜粋

どなたが書いた記事かは知らないが、恐らくこの記事の作者は浅草の神谷バーに行ったことも、銀座のルパンにも行ったことはないだろうし、電気ブランも、当時安吾が愛飲していて後に復活した「越の露」も呑んだことがないに違いない。
読んだ作品の浅い理解と作家についての浅い知識をベースに、いかにもそれっぽい記事にした浅薄さと無知が目に余る
まず指摘しておかなければならないのは、恐らく太宰が生きていた頃の日本でアブサンは呑めなかったに違いないからで、ハッキリとした時期は何とも言えない部分があるが、ヨーロッパ各国でアブサンが禁止されたのは1910(明治43)年~1920(大正09)年頃なのだ。

アブサン

アブサンとは、主にニガヨモギから作られる香草系リキュールの一種だが、モノによってアルコール度数が違うものの、およそ40~70度ぐらいで砂糖が入っていないから、リキュールというよりはスピリッツに近いと言える。
18世紀から19世紀にかけてヨーロッパ各国(特にフランスやドイツ、スペイン等)で大いに流行した由だが、その背景には第一次世界大戦があり、産業革命とともに隆盛した帝国主義とその行き詰まりに、国民の退廃と混沌とした世相があったに違いない。
そこで安価で向精神作用があるとされたアブサンが大流行し、多くの中毒者や犯罪者を出したためにご法度になって禁止されたようだが、戦後ずいぶん経ってからアブサンの戦犯容疑が晴れ、日本でも1960年代から1990年代の前半頃ぐらいまで、サントリーその他からアブサンが商品として販売されていたことがあった(正確には、1981(昭和56)年にWHOニガヨモギに含まれる「ツヨシ」の許容量を設けたことで改めて製造が再開され、現在でも安全基準を満たしたアブサンは流通しているが、呑む人は少ないかも知れない)。
ちなみに私もサントリーだったかどうかは忘れたが、バブル景気の頃にアブサンを呑んだことがある。当時よく行っていた北池袋の半地下のバーで呑んだと記憶しているが、強烈な味だったことを覚えているのみで、特にウマイとは思わなかった。
話を『人間失格』に戻すと、なぜ太宰が「飲み残した一杯のアブサン」と書いたかと言えば、ちゃんと解説しようとすると非常に長くなるので非常に簡単に言えば、アブサン中毒になって身を滅ぼした詩人に、ヴェルレーヌがいたからだろう。
太宰の、それこそ中学時代の同級生である阿部合成が制作した「太宰治碑」にある、

芦野公園「太宰治碑」

撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり

は、言うまでもなく『晩年』所収「葉」のエピグラムであり、ヴェルレーヌの詩句から採られたことは、太宰ファンなら誰もが知っている常識だ。
ゆえに、引用した記事を「ウソ」ではなく「デマ」だと指弾するのは、知らない人は「太宰もまた、アブサンを愛飲する芸術家の1人でした」を信じてしまいかねないだけでなく、記事全体の内容を鵜呑みにしてしまいかねないからだ。
私のようなどこの馬の骨とも知れない個人がテキトーに運営しているサイトの記事なら、私もここまでは書かない。小学館が運営しているサイトの記事だから、問題視せざるを得ないのである。
それと個人的に超絶気に食わないのは、「絶えず繰り返してしまう自問自答に苦しんだ太宰は、酒の力を借りることで心の平静を保っていたのでしょう」の部分で、作家が、いや、いい大人がなぜ酒を呑まずにはいられないのか、ちっとも分かってやしないクセに、酒と文学を紹介している厚顔無恥ぶりが特に許せないのだ。
酒が食文化ではない日本において、日本人の飲酒、特に酒呑みに対する偏見と、酒そのものに対する無関心とその無知さ加減は、私からすれば目に余るほどヒドイ
それゆえに一般論として文学に対する理解も浅いと言えるが、特にフランス文学等の外国文学についての理解は、もっと浅いのではないか。
そこに作家と酒に関する誤解と、もっと言えばデマのような言説が流布されてしまいかねず、引用した記事のような与太話が巨大出版社の運営サイトに載ってしまうのだ。
改めて言うまでもないが、太宰治その人と文学についての誤解と偏見は未だに根強いから、太宰文学と酒をこよなく愛する私としては、一杯やりながらこうして駄文を書かずにはいられないのである。

戦後の太宰とウイスキー  

太宰のアブサンに関する与太話は置くにしても、引用した「やんぬる哉」のラストで、太宰はこう独白する。

 私にはその時突然、東京の荻窪あたりのヤキトリ屋台が、胸の焼き焦げるほど懐しく思い出され、なんにも要らない、あんな屋台で一串二銭のヤキトリと一杯十銭のウィスケというものを前にして思うさま、世の俗物どもを大声で罵倒したいと渇望した。しかし、それは出来ない。私は微笑して立ち上り、お礼とそれからお世辞を言った。

出典:太宰治『津軽通信』所収「やんぬる哉」(新潮文庫, 1987(昭和62)年06月05日 8版, p.122)

この「世の俗物どもを大声で罵倒したいと渇望した」部分は、田舎の生家に疎開した「疎開者」の居辛さと、酒とタバコの不自由さが相俟った、太宰の本音だろうと思う。
事実、井伏鱒二宛の書簡で

出版景気といっても、景気にはこれまでいつもだまされてきましたし、とにもかくにも、私はヒカン論一点張り。
ただもう酒を飲んで俗物どもを罵倒したい気持ちでいっぱい。

井伏鱒二宛書簡 1945(昭和20)年11月28日

と書き送っている。
そんな不満を「一杯十銭のウィスケというもの」で晴らしたい太宰だが、果たして太宰はウイスキーなんぞ呑んでいたのだろうか?
間違いなく太宰は日本酒党であったろうし、小山初代と別れて美知子夫人と結婚するまでは、下宿で歯がボロボロになるまで安い焼酎を呑んでいた男である。
時代的に、壽屋(ことぶきや)洋酒店(現・サントリー)が「白札」(現・サントリーホワイト)を満を持して発売したのが1929(昭和04)年だから、「太宰はウイスキーを呑んでいない」とは言い切れないが、1本4円50銭(発売時)もするウイスキーを気軽に呑んでいたとは思えない。
また、「白札」は国産初の記念すべき本格的ウイスキーではあったものの、「焦げ臭い」「煙臭い」と不評で、鳥井信治郎の奮闘も虚しく売れなかったのだ。
その後、「サントリーウイスキー12年もの角瓶」(現・サントリー角瓶)が1937(昭和12)年に登場してヒットするが、こちらは「白札」よりも高級かつ高価で、1本8円(発売時)の値段だった。

サントリーウイスキー「白札」新聞広告(大阪毎日新聞 1932(昭和07)年03月27日朝刊)

仮に、当時の「白札」1本が現在のサントリーホワイトと同じ640mlだと仮定し、ウイスキー1杯を1ショット(通常は1オンス=約30ml)だとした場合、約21杯分となる。これを発売時の4円50銭で割ってみると、1杯約21銭見当だ。
舶来ウイスキーより安い国産の「白札」で、しかも1杯あたりの原価が21銭だと仮定するなら、太宰がヤキトリ屋台で呑んでいたと思しき「一杯十銭のウィスケというもの」の正体は、非常に怪しいと言わざるを得ない。
しかしながら、太宰は生家の疎開中に「サントリー級」のウイスキーを(津島家出入りの呉服商・中畑慶吉の尽力で)1ダースほど入手している。
このウイスキーの顛末については、「親という二字」と「親友交歓」の2作品で見事に描いているが、流石にこれらにの作品についても触れると「記事という名の小説」になりかねないボリュームになってしまうため、また別の機会に稿を改めて書いてみたい。
ただ、ことリンゴ酒に関して言えば、太宰は山梨の石和から広島の生家へ再疎開した井伏鱒二宛に、こう手紙を認めている。

こちらは、リンゴ酒なら、人にたのめばいくらでも入手できるようですが、この土地の人は、リンゴ酒をばかにして、あまり飲まないようです。そんなに皆からいやしめられているリンゴ酒を私だけがつがつ飲んでも呆れられるといけませんから、私も、がまんしています。甲府のブドウ酒よりも、具合いがいいのですがね。

井伏鱒二宛書簡 1945(昭和20)年10月07日

太宰が書いた別の井伏鱒二宛の書簡には、「こちらは、日本酒一升五十円、ウイスキー、サントリー級一本百円ならば、どうにか手にはいるようです」(1945(昭和20)年日付不詳)とも書いている。
大酒呑みってのは「酒の心配しかしねーのかよ!」と突っ込まれそうだが、私が太宰に代わって言い返したい。

そうだよ!いけねーのかよ!? (#゚Д゚)ゴルァ!!

ともあれ、酒呑みにとって酒がないという不安は耐え難く、しかしながら生家に疎開している居候の身であるから、太宰なりに最大限に体裁を繕う必要があったこと、そして終戦直後でも、青森にはリンゴ酒が豊富にあったことが分かる。
そんなリンゴ酒が忽然と消えて絶えてしまったのは、一体どうしてなのか? この辺についてはクラファンのリターンであるリンゴ酒そのものと、同じくリターンに含まれる小冊子(取材内容や様子をまとめた冊子)の内容に期待したいところだ。

おわりに  

体質的に酒が呑めない人や、呑めても下戸で酒が好きではない人にとってみれば、「何をアツク語ってやがんだ?」な記事でしかないが、人類と酒の歴史は古く、有史以前からあるとされている。
人間は天候に左右されず、食料の収穫量の多寡に関係なく、日々メシを食わねば死ぬワケだから、収穫した農作物・魚・肉の保存をせねばならない。そして食料をなるべく美味しく食べる方法を編み出す必要があった。
少なくとも、紀元前4,000年頃にはメソポタミア地方でシュメール人がワインを造って呑んでいたことが分かっているし、紀元前3,000年頃には同じくメソポタミア地方でビールが造られていたことも分かっているようだ。
つまり、人間が生きて行く上で食事と酒は不可分であり、それは現在に連綿と続く文化として継承されている。
日本酒に関して言えば、ザックリ7~8世紀頃の奈良時代に製造法が確立されたと言われているが、穿った見方をすれば、天皇を押し戴く律令国家になったのと同時期であったのは、偶然ではないだろう。
当時は租庸調の税金としてコメを徴収したワケだが、ザックリ言えばコメを酒にしてお祭りの時に庶民に解禁したのが天皇であり、神道の司祭=天皇で、お祭り=(まつりごと)=政治という、律令国家が形成されたのである。
ゆえに前述している通り、日本では古来より食文化と酒は別物であって、西洋のように日常的に飲酒する習慣がなかったと言える。
そんなに太古の昔の話はともかくも、近現代史においてすら、太宰の作品に登場したリンゴ酒なるものが現代において存在せず、どうして失われて絶えてしまったのかさえ、現在の我々は知る由もない。
そこで、「酒造りによる地方創生」自体は特に目新しくはないものの、現代に生きる我々が「次世代に何を託し、継承するか」が重要であり、太宰文学を次世代に継承するのであれば、リンゴ酒の復活は重要な取り組みであると言えるだろう。
かつての「甲府のブドウ酒」が、今や世界に名を知られる甲州ワインとなったように、弘前のシードルも世界的な評価を得つつある。
私としては、五所川原のリンゴ酒が太宰文学とともに世界に羽ばたくことを祈念し、擱筆としたい。