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2021/12/25
世間的にはクリスマスだそうで、私個人はここ10年以上にわたり全くちっともサッパリ関係のないイベントでしかないが、読者へ向けたささやかなクリスマスプレゼントとして、本稿を贈る。
私は所詮、太宰治の短編「メリイクリスマス」に登場する、屋台の奥に腰掛けてうなぎ屋の主人相手に酒を呑みながら、実につまらない、不思議なくらいに下手くそな、まるっきりセンスの無い冗談を言う、酔漢の紳士がせいぜいなのだ。
そんなユウモア感覚の欠如した酔漢の自称紳士が、クリスマスの性夜聖夜に、駄文家一流の諧謔をお届けしよう。
自覚のなさというのは恐ろしいモノで、本人はいつまでも若いツモリでいても、確実に毎年1歳ずつトシを食い、気が付いたら少年から青年になり、壮年から中年になってしまっている。
事実、私が社会に出て正社員になったのは17歳になって数日後だったから、当時はまだ少年だったのである。
ところが、精神年齢と生意気で挑戦的な性格は少年の頃とちっとも変わらないのに、身体は横方向に成長したり、体型に合わせて(?)対外的に丸くなったりと紆余曲折がありながら、今やスッカリ目・肩・腰の疲れと痛みに悲鳴を上げている始末だ。
世代的にも、トコロテン式に上の世代がとっくに現場から離れているどころか、徐々に引退しているのだから、世代交代と自分の「役割」を改めて認識し直さなければならない。
一般論として、主に若い世代が「他人が見えていない現実と将来を見通す」といった「ビジョナリー」となり、理想と不満を武器に石頭と無関心で理解しない烏合の衆を仕事と実績で捻じ伏せ、あるいは目覚めさせるといった役割を負うが、もはや私とその同年代は、そういった「若い世代」ではないことを自覚すべき
むしろ、今まで蓄積した知識と経験を次世代に引き継いで認識させる「ヒストリアン」としての責務の方が大きくなっていると言えるのではなかろうか。
それは、今となっては「懐かしい」「まだあったの?」などと言われて久しい国産OSSのPukiWikiで、そのライブラリとプラグインを独自開発し、本サイトや私設松本零士博物館サイトを運営している、私が負うべき責務でもある。
なぜならば、Wikiシステムは個人が持つ暗黙知を共有可能な集合知とすることが(ブログよりは)容易に行えるからであり、ネット上に個人または組織のWikiサイトが増えれば増えるほど「ネットが集合知として機能し得る」という、私個人の信念に基づいているからに他ならない。
平たく言えば、若さゆえの拙速な考えやその行動、または誤った知識や理解等を、一人の「ヒストリアン」として蓄積した知識と経験から、正しい方向に軌道修正が出来る情報を共有する必要がある。
そして可能ならば、知られていない事実や、新しい理解、もしくはその示唆を含むべきだと考える。
案外、自分では「常識」だと思っている知識や事実が、実は世間の「非常識」で、知られていない場合が多いのだ。
たまたま先月、次の記事を読んだ。
上記は新宿三丁目で文壇バー「風紋」を経営していた、林聖子さんを丹念にインタビューして本を上梓した著者の記事で、記事中にある著者の「私の使命は、上の世代の記憶を、下の世代につなぐことだと思うんです」の言葉に、大いに共感したのである。
林聖子さんと言えば、太宰治の短編「メリイクリスマス」のモデルとして知られ、今までも数限りなく作品の感想や解説記事等が書かれている。
そこで一丁、今さらジロー的に私も書いてみようと思うが、思えば少年の頃から今まで「メリイクリスマス」は何度読んだか知れないほどで、しかし自分が当時の太宰と同年代以上になると、「中年の悲哀」を作品に感じるようになった。
「太宰治のTwitter」でも少し書いたが、生家に疎開していた太宰が、終戦後一家を引き連れて東京・三鷹の家に戻ったのは1946(昭和21)年11月14日で、太宰は37歳になっていた。
今の年齢から言えば、厳密には中年というよりは壮年であり、太宰は中年になる前に亡くなっているから、「中年の悲哀」というのは私の感じ方に過ぎないのかも知れない。
ともあれ、この短編は主人公・笠井に自己投影して大いに脚色した「ひと回り以上年下の女性に惚れた中年男の話」として読めるだろう。
太宰の恋愛哲学と、ウカツで惚れっぽい中年男の失敗がベースになっているから、読者を大いに楽しませつつ、最後に飛んでもない諧謔をブチ込んでくれる。
諧謔については後述するとして、私は40歳前後ぐらいから『お伽草紙』の「カチカチ山」から通じる、若い女性(兎)と中年男(狸)の「恋愛の蹉跌」を連想させ、自分の年齢と今までの黒歴史を振り返り、ふと寂しさと虚しさを覚えるようになった。
無論、37歳の狸が今わの際に叫んだ「惚れたが悪いか」といった無残なことになってはいないが、ウカツな言動が「セクハラ認定」されてしまう殺伐とした昨今では、特に私のようなブサメン中年は、よほど注意しなければならぬ。
そういったモロモロを含んだ「中年の悲哀」なのだが、同世代以上の諸氏・諸兄には同情と理解が得られるかも知れないが、お若い人には「オヤジのタワゴト」と一蹴されてしまいそうである。
私のことはともかくも、作品の解説をしてみたい。
「メリイクリスマス」の初出は『中央公論』1947(昭和22)年1月号で、執筆はその前年の12月とみられる。
前述したように、太宰が疎開先の生家から三鷹の旧宅に帰り着いたのは1946(昭和21)年11月14日だから、三鷹に着いてそう日が経たない内に執筆され、驚くべき早さで雑誌に掲載されたようだ。
短編といえど小説なので、フィクションが散りばめられているのは当然ながら、林聖子さんとその実母・秋田富子さんがモデルとなっている部分は事実で、ちょっと長いが、ご本人の著書『風紋五十年』から引用してみよう。
二十一年十一月初めの日曜日、私は駅前の三鷹書店を覗いた。有島生馬さんが父のことを書いたという「ロゴス」を買おうと思ったのである。夕方の店内は、活字に飢えた人たちで一杯だった。店の人に「ロゴス」の所在を聞くため、一歩踏み出そうとしたとき、レジを離れようとしている男の人と向き合う形となった。私は魔法をかけられたようになった。「太宰さんの小父さん」といいかけて、あわてて「小父さん」の言葉を呑み込んだ。太宰さんには、もう三年余りも会っていない、多分、私のことなどもう覚えておられないだろう。「小父さん」などという親し気な呼び方は、今の私には、もう許されない。ふとそう感じたのである。それに、今の私は、決して昔のような子供ではない。
しかし、太宰さんは、やはり昔のままの太宰さんだった。「聖子ちゃん?」「やはり聖子ちゃんかあー」といいながら、近寄って来られた太宰さんは、温かい手をソッと私の肩に置いて、「無事だったのか、よかった、よかった」というように私の顔をのぞき込んだ。
決して夢でも、人違いでもなかった。しかし、太宰さんをわが家にご案内する間も、やはり、私は、夢の中にいるような気がした。上京して初めて味わうような幸せな気持だった。その夜、私たち母娘は、改めて再会の喜びを分ち合った。
それから半月ほどして、着物姿の太宰さんがわが家に来られた。そして、懐から「中央公論」新年号を取り出し、ひどく真面目な顔をして、「これは、ぼくのクリスマスプレゼント」といった。
母と私は、早速、雑誌を開いた。そして、頬を寄せながら、太宰さんの「メリイクリスマス」を読んだ。「ロゴス」が「アリエル」となっていることと私が広島の原爆孤児になっていること以外は、半月前の再会のときの模様が、そっくりそのまま、というより、より洗練された形で、そこに定着されていた。
私は、「メリイクリスマス」を手にするたびに、なんの苦もなく、四十年前の自分に還ることができる。母と太宰さんのおかげである。出典:林聖子『風紋五十年』所収「いとぐるま--母と私--」(パブリック・ブレイン, 2012(平成24)年06月19日 2版, pp. 229-230)
引用した「いとぐるま--母と私--」は、『風紋二十五年』(「風紋二十五年」の本をつくる会・1986(昭和61)年12月05日)が初出の由だが、「風紋」にて写真と『風紋五十年』に署名をいただいた2015(平成27)年4月の時点で、すでに絶版で入手はほぼ不可能とのことであった。
ともあれ、林聖子さんの「いとぐるま--母と私--」と、太宰の「メリイクリスマス」を比較して読んでみると、林聖子さんが「より洗練された形で」と言っている意味が分かるだろうと思う。
そこで、再び「メリイクリスマス」の解説に戻るが、まず、作中の「シズエ子ちゃん」という名前は、いかにも「変だ」と思うだろう。
これは林聖子さんの実父が画家の
また、作中でシズエ子ちゃんは「アリエルというご本を買いに来たのだけれども」と言っているが、これはご本人が「有島生馬さんが父のことを書いたという『ロゴス』を買おうと思ったのである」と「いとぐるま--母と私--」に書いている。
では肝心の「アリエルというご本」とは何か?と言えば、フランス人作家で伝記作家でもあったアンドレ・モーロワが書いた、パーシー・ビッシュ・シェリー(イギリス人詩人)の伝記のことで、山室静の翻訳で1935(昭和10)年に出版された『アリエル シエリイの生涯』のことを指していると思われる。
それと、見逃してはイケナイのは「緑色の帽子をかぶり、帽子の紐を顎で結び、真赤なレンコオトを着ている」シズエ子ちゃんの格好だ。正に「クリスマス・カラー」ではないか。
太宰は短編の名手で、それはひとえに「読者へのサービス精神」が旺盛であるからと言えるが、原稿用紙20枚ほどの「メリイクリスマス」でも、決して手を抜かずに読者を「ニヤリ」とさせるのを忘れない。
この辺の小説の「面白さ」や「巧みさ」は、夏目漱石同様、落語や古典の影響を十分に受けてのことだと納得するし、旧制中学時代に同人誌に発表された井伏鱒二の処女作品『山椒魚』(最初の題名は「幽閉」)を読んで「座っていられないほど興奮した」ことと、無関係ではないだろう。
さらに指摘するならば、「母方の親戚の進歩党代議士、そのひとの法律事務所に勤めているのだという」といった部分も、細かいようだが事実をベースとしたフィクションとなっている。
(義母=林倭衛の後妻が銀座で経営していた会員制のバー)「李白」を辞めた私は、祖父林次郎の代から親戚のようにしていた舟崎さんのお世話で、丸の内にあった三船商会という小さな会社に勤めることになった。当時、舟崎さんは日本金属産業という会社の社長であり、進歩党の代議士もされていた。その親会社とは別に、親子三人で、この三船商会という会社も経営されていたのである。この会社は、進駐軍の接収逃れのために、雑司ヶ谷のお宅の方にも分室を設けており、私は、おもに雑司ヶ谷に通った。勤めといっても実際に私などにできるような仕事があるわけでもない。黙ってお金を渡したのでは受け取りにくいだろうから、勤めということにしてやろう、というご配慮だったと思う。本当に有り難いことであった。
出典:林聖子『風紋五十年』所収「いとぐるま--母と私--」(パブリック・ブレイン, 2012(平成24)年06月19日 2版, p. 228)
このように細部に至るも、太宰は事実を元にしながら丁寧に小説に組み込んでいるのである。
「メリイクリスマス」に関しては、モデルになっている秋田富子さんに関しても、あながちフィクションではない。
これもちと長いが、「メリイクリスマス」から途中を端折って引用してみよう。
母は、私と同じとしであった。そうして、そのひとは、私の思い出の女のひとの中で、いまだしぬけに逢っても、私が恐怖困惑せずにすむ極めて稀れな、いやいや、唯一、と言ってもいいくらいのひとであった。それは、なぜであろうか。いま仮りに四つの答案を提出してみる。そのひとは所謂貴族の生れで、美貌で病身で、と言ってみたところで、そんな条件は、ただキザでうるさいばかりで、れいの「唯一のひと」の資格にはなり得ない。大金持ちの夫と別れて、おちぶれて、わずかの財産で娘と二人でアパート住いして、と説明してみても、私は女の身の上話には少しも興味を持てないほうで、げんにその大金持ちの夫と別れたのはどんな理由からであるか、わずかの財産とはどんなものだか、まるで何もわかってやしないのだ。
(中略)
答案は次の四つに尽きる。第一には、綺麗好きな事である。外出から帰ると必ず玄関で手と足とを洗う。落ちぶれたと言っても、さすがに、きちんとした二部屋のアパートにいたが、いつも隅々まで拭掃除が行きとどき、殊にも台所の器具は清潔であった。第二には、そのひとは少しも私に惚れていない事であった。そうして私もまた、少しもそのひとに惚れていないのである。性欲に就いての、あのどぎまぎした、いやらしくめんどうな、思いやりだか自惚れだか、気を引いてみるとか、ひとり角力とか、何が何やら十年一日どころか千年一日の如き陳腐な男女闘争をせずともよかった。私の見たところでは、そのひとは、やはり別れた夫を愛していた。そうして、その夫の妻としての誇を、胸の奥深くにしっかり持っていた。第三には、そのひとが私の身の上に敏感な事であった。私がこの世の事がすべてつまらなくて、たまらなくなっている時に、この頃おさかんのようですね、などと言われるのは味気ないものである。そのひとは、私が遊びに行くと、いつでもその時の私の身の上にぴったり合った話をした。いつの時代でも本当の事を言ったら殺されますわね、ヨハネでも、キリストでも、そうしてヨハネなんかには復活さえ無いんですからね、と言った事もあった。日本の生きている作家に就いては一言も言った事が無かった。第四には、これが最も重大なところかも知れないが、そのひとのアパートには、いつも酒が豊富に在った事である。私は別に自分を吝嗇だとも思っていないが、しかし、どこの酒場にも借金が溜って憂鬱な時には、いきおいただで飲ませるところへ足が向くのである。戦争が永くつづいて、日本にだんだん酒が乏しくなっても、そのひとのアパートを訪れると、必ず何か飲み物があった。私はそのひとのお嬢さんにつまらぬ物をお土産として持って行って、そうして、泥酔するまで飲んで来るのである。出典:太宰治『グッド・バイ』所収「メリイクリスマス」(新潮文庫, 1986(昭和61)年06月25日 31刷, pp. 188-189)
『風紋五十年』を丹念に読むと、引用した部分に関して太宰と秋田富子さんの関係は、ほぼこの通りではなかったか、と思う。
林聖子さんも「いとぐるま--母と私--」の中で、「それにしても、あのころの太宰さんは、なぜ、あのように頻繁に、母の許を訪ねてきていたのであろうか。子どもころのことで私にはよくわからないが、もちろん色恋であったはずはない」と述べている。
そして作中で「シズエ子ちゃんの母」は、「私と同じとしであった」のは事実だが、「母は広島の空襲で死んだというのである」の部分はフィクションだ。
しかし、1945(昭和20)年4月14日もしくは16日の空襲で林倭衛と別居して住んでいた高円寺のアパートが焼けてしまうと、秋田富子さんは娘の聖子さんを連れて実家の岡山県津山市に疎開している。離婚して後妻がいる林倭衛が、同年1月16日に肝硬変膿瘍が自潰して亡くなったからだ。
秋田富子さんの実家・淀永屋は、幕末の頃から
最後に、屋台の奥で腰をかけて呑んでいる紳士が、だしぬけに大声でアメリカ兵に発した「ハロー、メリイ、クリスマアス。」の諧謔だが、私は「広島の空襲」という書き方がすべてを物語っているように思う。
小説のオチとしては、「シズエ子ちゃんの母」は原爆で亡くなっていなければ効果的ではないし、事実、広島に投下された原爆によって日本は無条件降伏する契機となった。しかも、日本に進駐したGHQは私信までも検閲するといった、厳格な言論弾圧と情報統制を行い、戦前までの大量の書籍を焚書していたから、「広島で原爆死」とは書けない時代背景がある。
今と違い、当時の日本での「クリスマス」は進駐軍が持ち込んで定着した「アメリカ文化」だろう。
物資が乏しい中で酒を呑まずにはいられず、愛想笑いのお追従でも店主にツマラナイ冗談を言わなければ気が済まない紳士が、進駐軍のアメリカ兵に「ハロー、メリイ、クリスマアス」と叫ぶ諧謔は、今の日本人には理解も想像も出来ないに違いない。
「東京は相変らず。以前と少しも変らない。」と結んだ太宰の皮肉に満ちた心情も同様に、理解されないままだろう。
太宰ファンと言っても千差万別で、実際に「風紋」に行って林聖子さんからお話を聞くほど熱心なファンが、今はどれだけいるのだろう。
と言っても文壇バー「風紋」は、残念ながら太宰治没後70年の2018(平成30)年6月末で57年の歴史に幕を下ろした。
やはり林聖子さんで持っていたお店であったのは否めないし、林聖子さんのお歳を考えれば閉店はやむなしだろうと思う。
ゆえに、『風紋五十年』を知る人も、ましてや購入して読むほどの人は少なく、本稿の「作品解説のようなモノ」に関しても、初めて知る内容もあったかと思う。
ある程度の太宰治マニア(?)なら、秋田富子さんが太宰が入水して亡くなった1948(昭和23)年の12月13日に、結核性脳膜炎によって逝去したのを知っているかも知れない。
しかし、秋田富子さんのお墓を知る人は、まずいないのではないか。
無論、『風紋五十年』の読者なら、お墓が三鷹の禅林寺にあることは知っているだろう。だが、お墓そのものを見た人は、どれだけいるだろうか。
「秋田とみ子墓」とある秋田富子さんのお墓は、禅林寺の墓所の西側にあり、実は太宰治の墓の近くだったりする。
太宰の墓にはお花と線香が絶えないが(もう随分と前だが、禅林寺の方に「毎日必ず1人は太宰の墓参をする人がいる」と聞いている)、こちらはお花や線香どころか、今となっては訪う人が絶えていないようだ。
秋田富子さんのお墓の右側面で、墓石に刻まれている文字は
昭和23年
瑞祥院富山妙秀大姉
12月13日
と読める。
もう10年ほど前だったろうか、たまたま何かの用事で三鷹に出かけた際に、午前中で用事が済んでしまったので、午後は太宰の墓参でもしようと思った。
その日は5月か6月の平日で、確か仕事の関係だったように思うが、電車とバスだったため、禅林寺の近くの生協で弁当とビールを買い、太宰の墓前で一杯やりながら遅い昼食を摂ろうとしたのである。
すると、太宰のお墓を一生懸命水洗いしている、60歳代ぐらいの婦人がいた。
私はお構いなしに太宰の墓前にあるお墓に不敬にも腰を下ろし、盛大にビールを呑みながら、弁当をカッ込んでいた。
お墓を洗っていた婦人は、いきなり墓所でビールを呑みながら弁当を食っている、不審者としか言いようのない私に驚いたようだが、私が弁当を食べ終わるのを見定めると、声をかけて下さった。
お互いが熱烈な太宰ファンだと知るのは、秒の世界だった。
お名前は・・・確か金子さんと言ったろうか。生憎と名刺を切らしていた上に、システム手帳のリフィルも無くて、何かの紙の切れっ端にお互いの名前と電話番号をメモして交換したが、私はウッカリその紙を無くしてしまい、それっきりになってしまった。
その金子さん(仮称)が、秋田富子さんのお墓を教えてくれたのだった。
その後、文壇バー「風紋」に初めて行って林聖子さんとお話をした際に、ここでも金子さん(仮称)のご高名が鳴り響いていて、「ご本人はお酒が呑めないのに、お酒が呑める方を大勢連れてきて下さって」とのことだった。
あの日以来、金子さん(仮称)とお目にかかることもなく、今では懐かしい思い出になってしまったが、金子さん(仮称)がご健在でお元気であれば、と願う。
奇しくも、「メリイクリスマス」が載った『中央公論』が発売された1947(昭和22)年1月の10日、織田作之助が結核により急逝した。
初出は同年同月の1月としか私には分からないが、太宰は東京新聞に「織田君の死」を書いている。
こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。
死ぬ気でものを書きとばしている男。それは、いまのこの時代に、もっともっとたくさんあって当然のように私には感ぜられるのだが、しかし、案外、見当たらない。いよいよ、くだらない世の中である。
(中略)
織田君を殺したのは、お前じゃないか。
彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
織田君! 君は、よくやった。出典:太宰治『もの思う葦』所収「織田君の死」(新潮文庫, 2004(平成16)年01月30日 44刷, pp. 237-238)
私も現代において「いよいよ、くだらない世の中である」と思うし、「織田君を殺したのは、お前じゃないか」に関しても、「お前」が世間一般とその社会を指していることを思い知っている。
太宰がなぜ山崎富栄と玉川上水に身を投げたのか、その動機と理由は永遠に誰にも分からないものの、少なくとも林聖子さんは晩年の太宰の「ぼくは決して死なない。息子を置いて行くわけにはいかないんだ」の言葉を信じ、どちらかと言えば山崎富栄に引っ張られて一緒に心中したのではないか、と思っているようだ。
それが正しいとも、間違っているとも、私には言えない。
ただ、私は太宰が「死ぬ気でものを書きとばしている男」だったと思うし、当時がそんな男にとって生きやすい時代だとは思わない。それは現代でもそう変わらないだろう。
ともあれ、「メリイクリスマス」が執筆された当時でさえキリスト教徒が2%ほどで、現在に至ってはそれが1%程度に半減しているのに、宗教的・歴史的・文化的背景をスッ飛ばして和洋折衷で独自の文化に取り込み、無邪気にシャンパンを開けてチキンを食って喜んでいる日本人は、真にメデタイとしか言いようがない。
だから私はあえて言おう、「ハロー、メリイ、クリスマアス」と。
最後に、森まゆみ氏が上梓した『聖子——新宿の文壇BAR「風紋」の女主人』を紹介しておこう。
私の本棚には、読まなければならない&読みたい積ん読本が10冊を軽く超えているため、まだ本書は読めていないが、後でジックリ読んでみるつもりだ。
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