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2022/06/17
いきなり「(太宰の実家の)津島家の
さり気なく自分を若い世代に組み込んでみたが(笑)、私の世代ですら尺貫法を学校の授業で習った覚えはまったくない。しかしながら、私の両親は団塊の世代で、普通に尺貫法を知っているし、通常使うメートル法もモチロン分かって使っていた。
つまり、尺貫法が当たり前に分かる世代は団塊の世代までで、そのジュニア世代である我々以降の世代はまったく分からないから、尺貫法が通じる・通じないの境界はこの世代のハザマであると言えるだろう。
ただし、私が子供の頃は『母をたずねて三千里』というテレビアニメを見ていたし、同様に「百里の道も一足から」「千里の行も足下に始まる」といった慣用句で尺貫法の「
また、不動産や建築関係では、今でも尺貫法の「
こういった尺貫法の単位は現在でもその一部が生きているが、特に農業をやっていない都市部の人間には、土地の面積単位を表す尺貫法の「
そこで、津島家がいかに大きな地主であったかの説明かたがた、尺貫法について整理してみたい。
太宰は「青森県下有数の大地主」の6男(11人いる子女の内の10番目)として生まれたことは知られているし、父・津島源右衛門が多額納税による貴族院議員であったことや、贅を尽くした豪邸に生まれ育ったことを知る人は多いだろう。
しかしながら、大地主と言っても、どの程度の地所(田地)を持っていたのか、小作人は何人いて、田地からどの程度の収入を得ていたのか、太宰に関する評伝や研究書は多いが、具体的な数字を挙げている本はかなり限られる。
そもそも他人の資産や収入なんてのは下世話な話でしかないが、太宰の場合は実家が大金持ちだったゆえに、また太宰本人がその実家を密かに誇っていたゆえに、独特の文学を後世に遺したのだから、ある程度その実家の資産を知るのは意義のあることだと思う。
では、実際どの程度だったのか?
「お盛んなころは、青森県で一番二番を争う財産をお持ちだったように聞きましたが、田地はどれくらいありましたか」
「二百町歩くらいでしょうか」
後日、長兄の文治氏から聞いたところによると、津島家はこのほかに、津軽鉄道の株を十五、六万持ち、さらに金木銀行を経営していた。それらを全部合計すると、ざっと百五十万円前後になったという。
(中略)
「小作人はどれくらいいましたか?」
「三百人くらいでしょうか」
「たしか、田地二百町歩ということでしたね。そうすると、米はどれくらいになりますか」
「うちの小作料は安かったですよ。一反につき、ふつう一石といいますが、うちは八斗でした」
「すると、一町歩で八石。二百町歩だと千六百石ですか・・・・・・ウーン、これは大きいですね」
これはたしかに、そこいらにそうザラにない大百姓である。太宰治という男はこういう家の息子だったわけだ。出典:杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』(文藝春秋・1967(昭和42)年06月25日 第1刷・pp.23-28)
上記の引用は、太宰没後20年近く経った頃(1965(昭和40)年頃か?)に、著者の杉森久英が旅館になっていた太宰の生家・斜陽館に宿泊し、そこへ著者を訪ねて来た太宰の次兄・津島英治が著者の質問に答えている部分だ。
恐らく、この本で太宰の長兄・津島文治、次兄・津島英治が著者に語っている内容が原典となって様々な太宰治関連の著作その他に引用・展開されたと思われるが、この本は評伝でもとより小説ではないから、著者による仮構はないと見るべきだろう(それでも内容的に一部事実誤認の箇所が指摘できる)。
津島家の田地の広さの尺貫法についての整理は次章にするが、「ざっと百五十万円前後」の資産とは、現在の貨幣価値でいかほどなのか、先に検討しておく。
これは資料的に企業物価指数で当てはめて計算するしかなく、当時の貨幣価値を現在のモノとして完全に再現は出来ないものの、仮に1921(大正10)年当時を基準にし、2017(平成29)年の物価指数で計算してみると、
1921(大正10)年:企業物価指数 1.296
2017(平成29)年:企業物価指数 687.8
∴ 687.8÷1.296=約530.7倍
1921(大正10)年 150万円 ≒ 2017(平成29)年 7億9千6百万円
あくまで上記の計算上では、現在の貨幣価値でザックリ8億円ほどの資産家であることが分かる。
現在では8億円程度の資産の富裕層は日本国内でも割とザラにいそうだが、1921(大正10)年度の国家歳入は約2億6千5百万円だから、単純に150万円で割ると、津島家の資産だけで国家歳入の0.56%以上を占めることになる。
ちなみに2021(令和03)年度の国家歳入は約106兆6,069億円なので、それの0.56%として計算してみると、今で言えば津島家は軽く5,960億円を超える資産家であった、と言えるだろう。
元々尺貫法は古代支那由来の単位で、古くから日本を含む東アジアで使われて来たが、時代によってその単位と定義が変化していた。
日本では計量法の施行により、戦後の1958(昭和33)年12月31日限りで取引や証明に尺貫法を用いることは禁止された。
そこで、面積単位を尺貫法からメートル法に分かりやすく直すと、次の通りとなる。
※上記表の「メートル法」欄の値は尺貫法の単位に丸めているため、端数を省略している
歴史的に、田んぼ1面の大きさは1反であることが多く、これは田んぼ1反で収穫出来る米の量が1石であることに由来している。
1石は1,000合に相当するが、これは大人1人分の米の年間消費量に相当し、大人が1食1合食べるとした場合、1日✕3食✕365日≒1,000合という計算に基いている。
ゆえに、1反=1石であるから、津島家の田地が200町歩とした場合、単純に2,000石となるが、前述の通り津島英治の証言「うちの小作料は安かったですよ。一反につき、ふつう一石といいますが、うちは八斗でした」から、津島家の収穫としては1,600石という計算になるのだ。
とは言え、やはり都市部に居住している私のようなシティボーイ(死語)には農地の大きさが想像出来ないし、上記のように表に整理してもピンとこない。
そこで東京ドームで比較すると、東京ドームの面積は約47反(約4.7町歩)であるから、津島家の田地は東京ドーム42個分以上もあったことが分かる。
・・・そう考えると、スゲー広さだな。(;´Д`)
日本における尺貫法による計量は、遣隋使や遣唐使によって支那から伝来し、西暦701年の大宝律令により制度として確立したとされている。
これにより、租庸調による税の徴収と中央集権国家としての実質的な運営が可能になるが、時代によって尺貫法による基準がバラバラで統一した単位ではなかったようだ。
これを中世の戦国時代に天下を統一した豊臣秀吉により、西暦1582年の太閤検地で土地の測量を実施して権利関係を整理し、度量衡を統一したとされている。
こういった内容は小中学校の歴史(日本史)の中で勉強する範囲だが、私を含む大人のほとんどが忘れてしまっているに違いない。
太宰治のような日本近代文学を読む上でも、現代の日本人が尺貫法の単位が分からないように、戦前と戦後で教育内容が分断されてしまっているため、義務教育で勉強した歴史的事実も現在の生活となかなか結び付かず、学校で勉強していた当時は面白くないし、学校を卒業してしまうと忘れてしまっている。
実に恐ろしいことだが、歴史を失った民族は国を失う。それは祖先・先人の知恵を失うことになるからだ。
ゆえに、自国の歴史を学ぶ意味を再認識し、それを意味あるモノとして次世代に受け継がせていく必要がある。
別に太宰に限らず文学は個人の裁量で読めば良い話であるが、国民として自国の歴史はちゃんと勉強すべきだろう。
ともあれ、太宰治を輩出した津島家の地主としての規模と、その資産をザックリと知ることは出来たと思う。
私が調べている範囲では、家業である金木銀行が終戦を待たず第五十九銀行(後の青森銀行)に買収されているし、終戦後のGHQによる農地改革で田地の喪失もあり、津島家は急速に没落したようだ。
この辺の詳細に関しては、今後の研究課題としたい。
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