名作『斜陽』のタイトルは東久世通禧の漢詩に由来していた?


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太宰治小ネタ集

2022/06/27

太宰治の代表作を考えてみるに、国語の教科書に載っている『走れメロス』はちょっと別にしても、やはり『斜陽』と『人間失格』になるのではないか、と思う。
この『走れメロス』『斜陽』『人間失格』の3作は、実際に読んだことがない人でも、日本人なら作品名ぐらいは誰しも知っているに違いない。
特に『人間失格』は、そのタイトルのパワーワードっぷりからして有名だし、実際に手に取ってみたくなるが、果たして『斜陽』の場合はどうだろうか。
例えば「斜陽産業」等の言葉と意味を知っている人なら、「没落をテーマにした作品なんだな」と思うかも知れないが、そうでない人は「斜陽」のタイトルに魅力を感じるとは思えない。
そこで、名作『斜陽』のタイトルについて小ネタをブッ込んでみたい。

『斜陽』執筆の背景  

ダグラス・マッカーサーと吉田茂

戦時中、恐らく親戚を頼って窮屈な疎開生活をするのが面倒かつ超絶気が進まなかったであろう太宰としては、いつまでもズルズルと三鷹に住み続けたかったに違いないが、1945(昭和20)年になるとB-29による無差別爆撃が本格化し、軍需工場が密集していた三鷹も米軍の標的にされた。
大東亜戦争開戦前の1939(昭和14)年には調布飛行場が建設されていたし、1941(昭和16)年12月の開戦と同時に、中島飛行機三鷹研究所が建設されたため、関連する中島飛行機武蔵製作所等、軍需工場や研究施設が三鷹・武蔵野地域周辺に集まっていたからだ。
この年の3月、太宰は先に妻子をその実家である甲府の石原家に疎開させ、翌4月に空襲で家が一部損壊すると、留守を小山清に託して妻子を追って石原家に疎開している。
しかし、同年7月の空襲で石原家が全焼してしまい、妻子を伴って実家がある金木へ再疎開することになった。
太宰が「決死行」として再疎開するも、同年8月14日の「終戦の詔勅」により日本の敗戦が決定し、翌15日正午のラジオ放送(玉音放送)によって国民に敗戦が知らされることになった。
その半月後の同月30日、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が愛機「バターン号」で厚木の海軍飛行場に降り立っている。
マッカーサーは仮のGHQ本部を横浜税関ビルに設置し、9月2日の戦艦ミズーリでの降伏文書調印式に立ち会うと、皇居前の第一生命ビルGHQ本部を移し、日本政府を利用した「間接統治」により、本格的な日本の占領統治を開始する。
そして、太宰とその実家である津島家に対して大打撃を与える政策が断行された。時系列にすると、

いわゆる戦後の「農地改革」により、地主が所有し、小作人から地代を取得していた農地は一旦農水省が土地所有者として登記し、小作人に分割される等の処理が行われた。
具体的には、農地の買収と譲渡は1947(昭和22)年から1950(昭和25)年まで行われ、最終的に193万町歩の農地237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡された(沖縄県と鹿児島県奄美群島は、戦後アメリカ施政権下に置かれたため、農地改革は行われていない)。
太宰の実家・津島家の場合もそうだが、明治維新期に行われた地租改正と、田畑永代売買禁止令の廃止によって発展した新興地主であり、全国的にみても江戸時代からの地主の方が少なかっただろう。ゆえに、GHQの「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化して云々」は言い過ぎも甚だしいと思うのだが・・・。
ともあれ、GHQによる「民主化」の掛け声の元、寄生地主制小作制度は荒っぽく解体されることになり、当時の急激なインフレと相まって、元小作人が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しいと言われている。
敗戦直後の急激なハイパーインフレのために預金封鎖新円切替が実施されており、国民はその財産を強制的に国へ申告せねばならなかったし、同年10月の第二次農地改革法、翌11月の財産税法の成立で、地主階級は土地や資産を国に吐き出さねばならなくなった。
ちなみに財産税法は超過累進課税方式で、同居家族は課税価格を合算した総額に対して、次の税率を算出して納税する必要があったようだ。

No課税価格税率
1  10万円超~  11万円以下25%
2  11万円超~  12万円以下30%
3  12万円超~  13万円以下35%
4  13万円超~  15万円以下40%
5  15万円超~  17万円以下45%
6  17万円超~  20万円以下50%
7  20万円超~  30万円以下55%
8  30万円超~  50万円以下60%
9  50万円超~ 100万円以下65%
10 100万円超~ 150万円以下70%
11 150万円超~ 300万円以下75%
12 300万円超~ 500万円以下80%
13 500万円超~1,500万円以下85%
141,500万円超90%

1946(昭和21)年当時、津島家が財産としてどの程度の金額を申告したのかは分からない。
太宰治小ネタ集#001「太宰治の実家、津島家の田地は200町歩?資産は5,960億円超!?」で述べたように、仮に財産を150万円だと申告していた場合、税率は70%で納める税金は105万円にもなる。
どのみち第二次農地改革法で土地を国に差し出さざるを得ず、財産税法で財産の大半を失う地主階級は、納税で物納が可能であったことから、大地主ほど所有していた土地を税金として物納したようだ。
この時、実家に疎開していた太宰はどうしていたのか?

津島美知子『回想の太宰治』

 終戦翌年の六月、税金そのものではないが、所得の証明願を税務署に出さねばならなくなった。ある日太宰が一枚の紙片をひらひらさせて、得意気に私に示した。津島修治、筆名太宰治が、記入して五所川原税務署長宛に提出してあった、
  乙種事業所得による
   所得金額 五〇〇〇円
   職業名  著述
  右ノ通決定アリタルコトヲ御証明相成度候也
という書類が「右証明ス」と署長印を捺して六月三〇日付で返ってきた。書類といってもザラ紙に孔版刷の紙片で、彼が得意になっているのは自分が記入した五千円という数字である。
 これは所得税の申告書ではないから、頭を悩ますことはなさそうだが、証明された金額によって自分が遣うことの出来る金額がきまるのである。銀行預金がいくらあっても封鎖されていて、月に払戻できる金額は証明された金額によってきめられる(太宰の場合、この書類の上欄に、このあと七月から十一月まで、毎月五百円ずつ払戻したことを銀行支店が記入している)。くわしいことは知らないけれども、戦後のひどいインフレを抑えるためにとられた「緊急金融措置」であったと思う。太宰の場合、闇の高価なウイスキーや外国煙草を買い入れるために十分な小遣いは欲しいし、そうかといって、あまり所得金額を多く書き入れても税務署の目が光るようで、原稿書く合間に狡智を働かせて、五千円という金額を自分で決めて記入して、母屋の帳場さんに提出してもらった。それが無事にパスしてこれから毎月五百円ずつは自由にできる保証を得たのだから、安心して嬉しくて私に見せたのである。

出典:津島美知子回想の太宰治』(人文書院・1978(昭和53)年06月10日 第4刷発行・pp.128-129)

太宰は1946(昭和21)年6月ぐらいまで、上記のように5,000円の所得証明を得て、預金封鎖の中で銀行から毎月500円の払い戻しが出来るようにし、得意になっていたようだ。
時期的に第一次農地改革法が国会に提出されていて、おおよそのことは知っていたと思うが、第一次農地改革法がGHQに拒否されて同年10月に第二次農地改革法が成立し、その翌月には財産税法が成立したのだから、いくら世事に疎い太宰でも、実家の没落を目の当たりにしたことだろう。
太宰としては、離れとはいえ実家に寄宿する疎開の居辛さを感じていただろうし、東京の食料事情が大いに気になるものの、長兄・津島文治の戦後初の民選知事選挙や、祖母の葬式といった雑事で、上京が叶わない焦れったさを友人知己に手紙で書いている。
財産税法が成立した11月11日の翌12日に太宰一家は上京のため金木を出発しているが、これは単なる偶然だろうか。

なぜ「落日」ではなく「斜陽」なのか?  

落日?斜陽?

太宰一家は1946(昭和21)年11月12日に実家の金木を発ち、14日夜に三鷹の旧宅に帰り着いた。
その翌日、かねてより手紙で連絡していた、戦後復員して新潮社に勤めていた野原一夫の訪問を受ける。

野原一夫『回想 太宰治』

 十五日の朝、社に寄らず、三鷹に直行した。駅前の町並みも、小川も、雑木林も、畑のひろがりも、三年前とすこしも変わっていないように思われた。路地を入って太宰さんの家の前に立ったときは、まだ九時半をすこしまわった頃だった。早すぎたかなと思ったが、ためらわず玄関の格子戸をあけた。
(中略)
「新潮社とは、いいところに入ったね。大いによかった。老舗には、どこかいいところがあるものです。『新潮』の連載は書く。書きたいものがあるんだ。いや、これは、大傑作になる。疑ってはいけない。すごい傑作になるんだ。」
 笑いながらそう言って、右の手をひらいてそれをすかし見るような格好をした。この手で傑作を、という心組みだったのかもしれない。
 奥さんがお茶をもってこられ、「片付いておりませんので、たいへんとり散らかしておりまして。」と挨拶された。長居は失礼と思い、近いうちに新潮社に来てもらうようにお願いして、私はおいとました。
(中略)
 二十日の夕刻、太宰さんは新潮社に来てくれた。セーターにグレイの背広を着て、兵隊靴をはいていた。編集顧問の河盛好蔵氏、『新潮』編集長の斎藤十一氏、出版部長の佐藤哲夫氏が同席して、『新潮』への小説連載と新潮社からの単行本刊行が正式に依頼された。
 旧知の河盛さんに久しぶりに会って、太宰さんは嬉しそうだった。
「傑作を書きます。大傑作を書きます。小説の大体の構想も出来ています。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落階級の悲劇です。もう題名は決めてある。『斜陽』。斜めの陽。『斜陽』です。どうです、いい題名でしょう。」
 意気込んだ口調でいっきに喋った。

出典:野原一夫回想 太宰治』(新潮社・1980(昭和55)年05月10日 発行・pp.30-32)

太宰は実家に疎開していた頃から、すでに『斜陽』の構想があったのだろう。11月20日に新潮社を訪れた時には、具体的に『斜陽』というタイトルを決めていたことが分かる。
しかし、なぜ「斜陽」なのか? 「斜陽」の類語では「落日」もあるし、対義語を「旭日」とした場合、「斜陽」よりも「落日」の方がピッタリ来ると思うが、どうだろう。
そこで、広辞苑で「斜陽」を調べてみた。

しゃ-よう‥ヤウ【斜陽】①西に傾いた太陽。また、斜めにさす夕日の光。和漢朗詠集「山は向背を成す-の裏」②比喩的に、時勢の変化で没落しかかること。「-産業」
 --ぞく【斜陽族】(太宰治の小説「斜陽」から)急激な社会の変動によって没落した上流階級を指す語。

出典:新村出編『広辞苑』(岩波書店・1998(平成10)年11月11日 第5版 第1刷発行)

上記の内容から、【斜陽】の第一義的な意味としては「西に傾いた太陽」といった意味で、これは【落日】の「沈もうとする太陽」の意味と大差はない
第二義的な意味の「比喩的に、時勢の変化で没落しかかること」は、明らかに太宰の『斜陽』がベストセラーになったがために、後から意味が追加されたと思われるが、広辞苑を含む国語辞典、その他太宰治関連の私の蔵書では明確に「太宰治の作品『斜陽』によって意味が追加された」とは教えてくれなかった(ウィキペディアの「斜陽」ページには『斜陽という言葉にも、国語辞典に「没落」という意味が加えられるほどの影響力があった。』と記述があるが、出典は示されていない)。

「斜陽の間」と東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)の漢詩  

太宰治記念館「斜陽館」(2009(平成21)年06月20日撮影)

太宰の生家は、「斜陽館の歴史」(太宰ミュージアム)によると、1948(昭和23)年06月26日に角田唯五郎氏が住宅として買い取ったものの、1950(昭和25)年に旅館「斜陽館」を開業、1976(昭和51)年に所有者が黒滝氏に変わるも、1996(平成08)年03月20日に旧金木町が買い取るまでは旅館として営業を続けていた(太宰治アーカイブズ/1996年ページ参照)。
その後、1998(平成10)年04月17日に現在の太宰治記念館「斜陽館」として開館している。
個人的に、1995(平成07)年7月に旅館だった「斜陽館」に2泊したし、2009(平成21)年6月の太宰治生誕100年には、現在の太宰治記念館「斜陽館」にも訪れている。

「斜陽の間」(2009(平成21)年06月20日撮影)

上記画像は太宰の母・タ子(たね)の居室であったとも言われ、案内板には「書斎」でもあったことや、旅館として営業していた頃に太宰ファンから「斜陽の間」と親しまれた部屋であることも説明されている。
右から3番目の襖の漢詩に「斜陽」の文字が見えるが、それらを含めた案内板の説明内容は、すべて杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』に依るものだろうと思われる。
ちょっと長いが、他のサイトで紹介している例もないようだし、重要な部分を引用してみよう。

杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』

 英治氏は二階の八畳の一室をあけて
「この部屋は、書斎と呼んで、夏休みなんか、兄弟集まっていたものです。友達なんか来ても、この部屋へつれて来て、ねころんで小説を読んだり、菓子を食ったりしていました。あそんでばかりいたものです」
 英治氏は部屋の片隅の襖いっぱいに書いてある漢詩を指さして
「ここに『斜陽』という字があります」
 見ると
  蒹葭緑老満陂塘(蒹葭緑老(けんかみどりお)いて陂塘(はとう)()つ)
  秋社村園野飯香(秋社村園野飯(しゅうしゃのそんえんやはん)()
  風峭客衣初欲冷((かぜ)きびしく客衣(かくい)はじめて()えんと(ほっ)す)
  砧声断続響斜陽(砧声断続(ちんせいだんぞく)して斜陽(しゃよう)(ひび)く)
 とあって、最後の二字はたしかに「斜陽」である。
「この襖は、むかしからあったものですか」
「そうです。私たち子供のときから見ています」
「なるほど、皆さん、これを見ながら大きくなられたわけですね?『斜陽』という小説の題名は、ここから来たというわけですか。誰かの文章に、太宰さんは乃木将軍の『錦州城外斜陽に立つ』という詩が好きだったので『斜陽』という題にしたと書いてありましたが、『斜陽』という字は子供のときから見馴れておられたわけですね」
「そうです」
(中略)
「この詩の作者について、何か御存じですか」
「どういう人か、聞いていません」
「署名は通禧とありますね。禧という字はなんと読むのか知りませんが、みち・・・・・・何とか読むのでしょう。通禧という名で思い出すのは、幕末の勤王派の公卿で、有名な七卿落ちの一人、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)ですが、もしかしたら、その人ではないでしょうか」
「そんな立派な人のものとは知りませんでした」
「落款は『源氏通禧』と『熙卿』と二つですね。東久世家は多分源氏の出なんでしょう。この字はほぼ通禧卿のものと考えていいのではないでしょうか。ほかにはめったにない名前ですから・・・・・・」
「そんな人の書が、どうしてこんな辺鄙な田舎にあるのでしょう」
「さあ・・・・・・よくわかりませんが・・・・・・東久世という公家さんは、たしか明治になってから、維新の功労で伯爵になり、華族会館の館長や、貴族院の議長か副議長を勤めているはずです・・・・・・そうそう、そういえば、あなたがたのお父様が貴族院議員になられたのは、いつごろでしたかしら」
「大正十二年になくなるとき、多額納税議員でした」
「そのとき東久世伯爵が貴族院議長か副議長だったら、お父様が伯爵に書いてもらったということになって、話は合うんですが・・・・・・」
 あとで、東京へ帰ってから、しらべてみたら、東久世伯爵は明治四十五年になくなっているし、彼が副議長だったのは、さらにそれより十年も前のことである。だから、太宰たちの父が東久世伯爵に書いてもらったとしても、それは彼が貴族院議員だったころではなく、もっと若くて、県会議員くらいのころであったろう。ちょうどそのころ、彼はこの邸を新築しているから、もしかしたら、彼はこの家の装飾にするつもりで、伯爵にたのんで揮毫してもらったのではなかろうか。

出典:杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』(文藝春秋・1967(昭和42)年06月25日 第1刷・pp.16-19)
※漢詩の書き下し文を含め原文にルビはないが、読みやすいようにルビを振った

上記「斜陽」の文字が含まれる漢詩は、杉森久英が指摘しているように、恐らく東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)の作であろうと思われる。
内容としては、

オギとアシの緑は老いて土手に満ちている
秋の社日の里村に粗飯の香りがする
旅人には風が厳しく冷たいようだ
木槌を叩く音が夕日に断続して響いている

といった意味になるだろうか。
「秋社」と「斜陽」で二重に「人生の旅の黄昏」を表現しているとも取れる内容の詩だが、疎開中の太宰は、実家の没落とこの襖の漢詩が念頭にあったのは間違いないだろう。
太宰が太田静子と出会い、その日記を借り受けて『斜陽』を執筆し、妊娠した静子が今後のことを話し合おうと三鷹へ太宰を訪ねたものの、何の相談も出来ずに二度と会うことなく下曽我に帰った詳細は、野原一夫回想 太宰治』に詳しく書かれている。
かくして『斜陽』は『新潮』1947(昭和22)年7月号~10月号に連載され、同年12月15日に新潮社より刊行、ベストセラーとなった(初版10,000部・定価70円)。
それから約半年後の1948(昭和23)年06月13日深更に太宰は山崎富栄と共に玉川上水へ入水して果てたのだから、太宰の生前に刊行された作品では『斜陽』が一番のベストセラーであり、かつ、太宰のそのセンセーショナルな死によって、『斜陽』や死後刊行された『人間失格』(絶筆となった「グッド・パイ」を所収し、筑摩書房より1948(昭和23)年07月25日刊行・定価130円)は大いに売れたことだろう。
ただし、太宰がその名作『斜陽』のタイトルの由来となった東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)の作と思われる漢詩とその意味は、杉森久英の特異な評伝『苦悩の旗手 太宰治』が出版されるまで、明らかにならなかったようだ。
それは現在でも、太宰治記念館「斜陽館」を訪れて「斜陽の間」を実際に見学し、または、太宰治に関する書籍を渉猟するほどの ド変態 マニアでなければ、知られない内容でもあるようだ。

参考文献  

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