白百合忌/2022年

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タグ白百合忌, 2022(令和04)年, 山崎富栄生誕103年, 山崎富栄没後74年, 古事記, 神武天皇, 須気余理比売, 丹阿弥谷津子, 長篠康一郎


 
白百合忌(江戸川橋「永泉寺」墓所と長篠康一郎の著書)

2022/06/13

2022(令和04)年  

関東の梅雨入りは6月6日頃と、例年より1日早いとのことだったが、今日は朝から天気が良く、かと言って暑いというほどでもなく、不思議と私には過ごしやすい一日だった。
何故か毎年6月頃になると公私共にバタバタと立て込むため、毎年白百合忌を失念するのだが、今年は太宰治文学忌ページを作成したので、万全を期していた。
長篠康一郎氏が存命中の「白百合忌」は、どうやら15時頃に執り行われていたようだから、そのぐらいの時間をターゲットに行ってみた(向かっていた途中、トラブルがあって夕方近い時間になってしまったが)。

永泉寺 山崎家墓前 2022(令和04)年

やっと、6月13日に墓前に白百合を捧げ、手を合わせることが出来た。
画像を見ていただければ分かるが、ユリは花弁が大きく、包装のセロファンを取ってしまうと、せっかくの花が下を向いてしまうと思った。
戦争になったがために、時代と太宰に翻弄された富栄の人生を思うと、白百合忌には下を向いた白百合が似合うのかも知れない。しかし、それでは余りに富栄が哀れすぎる。
せめて私がお供えする白百合は、富栄の明るい人柄のように上を向いていて欲しいと思ったのだが、どうだろう。
とは言え、墓参する人は私以外に見当たらず、帰りに寄る(ゆかり)の場所もなく、私としては寂しい墓参だった。
・・・そう、つまり書くネタがない!
そこで、白百合忌の語源になったユリについて書いてみようと思う。

ジュピアランドひらた ゆり園

私は自然に親しむような趣味はミジンもなく、山は登ったら下りなきゃならない、海は酒呑んだら入れない、などと周囲に興醒めなことを言い、雄大な自然に感動するだと?女体の神秘こそ偉大な自然で本物の感動がある!と酔って口走る不逞の輩であるため、そもそも花に詳しいワケがない。
その証拠に、ユリ(和名)の英名がLily(リリー)であることすら知らないのだから、この原稿を考え考え書きながらも、非常に心細い次第だ。
大体、私を含め野郎が花に詳しいワケがない。食用菊は別にしても、日本には花を食べる食文化はないし、数日したらしぼんでしまう花を飾って何になろうか。
腹の足しにもならず、インテリアにしては寿命が短い生花に実用性はない。ゆえに花は、一般に女性より理論的または実務的な野郎が好む対象にはならない。そんな花をなぜ野郎が身銭を切って買うのかと言えば、「なんか知らんが、女は花を贈られると嬉しいんじゃね?」という、単なる思い込みでしかない(私だけ?)。
そこで、太古の祖先はどうだったのか?『古事記』の「神武天皇の皇后選定」に、次の神武天皇の御製が見える。

葦原(あしはら)の (しけ)しき小屋(をや)に 菅畳(すがたたみ) 弥清(いやさや)敷きて 我が二人寝し」

この御製は、神武天皇の求婚を受け入れた須気余理比売(いすけよりひめ)が宮中に参内されたときに詠まれたとされており、意味としては「葦原の粗末な小屋に、(すげ)で編んだ敷物を清く敷いて、私たちは二人で寝たことよ」となる。
この「葦原の粗末な小屋」は、須気余理比売(いすけよりひめ)の家を指していて、おいおい、ズイブンな言い方じゃねーか!?と思わなくもないが、須気余理比売(いすけよりひめ)の家には山百合が多く咲き誇っていたとされている。
私の『古事記』の理解は非常に心許ないものの、須気余理比売(いすけよりひめ)神の子であると呼ばれ、その「神の子」は、日本に古来から自生するユリが咲き誇っている場所に住んでいたのだ。
つまり、須気余理比売(いすけよりひめ)はユリのように大きく美しく、そして芳しい香りを放つ人であった、と『古事記』は伝えたかったのだろう。
・・・察しの良い人は、私の意図が読み取れたかも知れない。
ともあれ、『古事記』や神武天皇を疑問視する向きは、林房雄神武天皇実在論』でも読んでおきやがれ。

伊馬春部『桜桃の記』(中公文庫・1981(昭和56)年06月10日 発行)

さて、伊馬春部桜桃の記』に主演した丹阿弥谷津子氏は、富栄にどんなイメージを得たのだろうか。
それは本人に聞かなきゃ分からないものの、「このお花が一番ふさわしい方のように思えて」と、沢山の白百合の花束を墓前に捧げられ、それを伝え聞いた長篠康一郎氏が「富栄忌」から「白百合忌」に名称を変更した英断も、根底に『古事記』が基礎にある日本人ならではの感性だと、言い切ってしまうのは無理があろうか?
仮に無理なら無理ついでに、「白(=純潔)百合(=神の子)」が富栄だった、と私は言ってしまおう。そんなイメージが丹阿弥谷津子氏や、それを伝え聞いた長篠康一郎氏にあったのではないか。
いや、そんな感じがしただけかも知れないが、ともかく花のイメージにピン!と来たに違いない。
・・・太宰治の最晩年になりふり構わず全力で寄り添って不朽の名作を完成させ、そして最悪の不幸ながらもその芸術を昇華させた山崎富栄その人に、私は最大限の感謝を捧げる