新年のご挨拶と今年の抱負


タグ管理人「一日の労苦」, 2023(令和05)年, 昨年の実績, 昨年の総括, 今年の抱負


 
管理人「一日の労苦」(金木小学校 太宰治「微笑誠心」碑)

2023/01/01

新年のご挨拶と今年の抱負  

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。

謹賀新年

ザックリこの30年ほどを振り返ってみると、12月に入ると年賀状のデザインを何となく・それとなく考え、年賀状印刷ソフト(自作していたこともある)で住所録を整備し、なるべく元旦に届くよう25日までに年賀状を印刷し、手書きメッセージを添えていた。
昔はドットプリンタのNEC PC-PR201/60A(すでにネットにはリンクすらない)でカラー印刷してみたり、カラーは諦めてレーザプリンタのNEC PC-PR1000/4で両面印刷をやっていたが、いつしかパソコンもPC-9801FAやマッキントッシュLC575を押入れにブチ込んで封印し、Windowsパソコンでカラーインクジェットプリンタで印刷するようになった。
年々、年賀状を出す枚数も減り、ここ数年はラクスルにオンラインでデザインした年賀状を発注して送付しているが、年賀状が片付くと「年末だなぁ」と思っていたが(以前は正月気分に浸るため、おせち料理や日本酒を買い込んでいたものだが)、今はそういった季節感も感じない
多分にフリーランスに戻ったのもあるが、会社員をやっている頃は忘年会だの新年会だのがまだあったし、仕事の付き合いで知り合った人とも長く年賀状の挨拶をしたものだが、今はそんなこともない。
ネットとSNSの普及がそれを後押ししている面は否めないが、なぜ「新年明けましておめでとうございます」なのか、ちゃんと知る人がそれだけ減っていることなんだと私は理解している。
高齢になれば、後の家族等に迷惑をかけることがないように「終活」をすることが流行っているようで、そういう人ほど「年賀状は本年を以て終了します」みたいなことを書いて来る。別にそれは悪いことでも、批判することでもない。
が、そういう人はもう、自分自身の誕生日をメデタイとも思っていないのだろう。
元旦というのは、日本古来からの伝統文化で、数え年の誕生日なのだが。
年賀状が来なければ「どうしたんかな?」と連絡したのも、今や古い風習なんだろう。思わぬ訃報は、年賀状の返信で知ることが多かった。

PukiWikiの技術的な話は私設松本零士博物館の方で書こうと思うが、やはり昨年もサイトのコンテンツを充実させるよりも、PukiWikiサイトとしてプラグインを充実させる方を優先させてしまった。
基本的に、SEOはネットで解決したい問題(知りたいこと)を記事にすることが重要だし、Googleもそれを推奨している。
しかしながら、ウェブサイトとして内部SEOが弱いPukiWikiは、WordPresに比べるとまだまだプラグインその他で問題を解決するしかない。
プラグインの仕様を決め、実際にコーディングし、テストを経て本サイトを含め実運用サイトに反映させて効果を見るには、SEOは時間がかかる。
Googleにインデックスされないウェブサイトのページは永遠に検索されないため、SEOが重要なのだ。

個人的に昨年10月下旬頃から体調を崩してしまい、サイトの更新もままならんかった。
今も動悸が激しいのでこうした駄文を書くのさえ大変だが、今年は生活習慣を含めて考えなければ、と痛感した。
ここ数日動悸が激しくて、まったく動けなかった。大晦日は「ヤベェ、こりゃ死ぬな」と、一日中シンドくて動けないから死を覚悟したほどだ。
この辺に関しては、後日メインサイトでちゃんと記事にする。
実際のところ、私自身は「いつ死んでもいい」と思いながら生きている。
しかしながら、大晦日は強い動悸に苦しみながら自分が達成できていないことをアレコレ列挙して反芻していたら、心理的にもツラかった。ヒストリアンの一人として、いかに有益なソフトウェアやネット記事を後世に残せるかを考えているからだ。
なんでそんなことを考え、ウェブサイトを運営しているかって? 太宰は鰭崎潤宛の書簡で次のように書いているので、ちょっと長いが引用しておこう。

 12日に退院いたしました。脳病院ひとつき間の「人間倉庫」の中のここちについては、いまは、申しあげませぬ。「新潮」新年号に「HUMAN LOST」という題の小説(四十枚)書き送りましたが、それも全部を語っていませぬ。
 更生のプラン、すべて笹の葉の霜のごとくはかなく消えて、一種の焼野原に十日間さまよい、私、完全の敗北を、この目に、はっきり見せつけられ、デスペラに落ち込む危険を感知、昨夜、この地にまいり、下宿屋一日三食ニ円の家をみつけて、ここにひとつきぐらいいたいと思っています。
「改造」から新年号に小説、三、四十枚言って来ています。来月五日までに書きあげて送る約束しています。四十枚、「二十世紀旗手」すでに、十一枚書きあげました。「文藝春秋」は正月号にはまにあはず、二月号三十枚書かなければなりません。ジャーナリズム、私の悪名たかきを利用する、と一時は不快、ことわる決心いたしましたが、この世への愛のため、われより若き弱き者への愛のため、奮起した。ご信用ください。「なんじを訴えうる者とともに途にあるうちに、早く和解せよ。おそらくは、訴えうる者なんじを審判人(さばきびと)にわたし、審判人は下役にわたし、ついになんじは獄に入れられん。まことに、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、そこをいずることあたわじ。」入院中はバイブルだけ読んでいました。それについて、いろいろ話したきことございます。

出典:『愛と苦悩の手紙』(亀井勝一郎編・角川文庫クラシックス・2009(平成21)年12月05日 改訂3版発行)
鰭崎潤宛書簡・1936(昭和11)年11月26日

勝手に太宰の言葉を引用すれば、「この世への愛のため、われより若き弱き者への愛のため、奮起した」としか言えない。それが無名かつ天才でもない、ヒストリアンを自認する私の気持ちである。
そして私が聖書を学ぼうと思ったのは、太宰と鰭崎の聖書知識が分からなかったからだ。
いや、そもそも私はキリスト教なんて興味がない人間なので、自分で聖書を買ったものの読み方も分からず、独自で勉強するのには限界があった。
元ヨメがそんなのとは全然関係なくクリスチャンだったので、教会に行って牧師の説教を聴いたのは一度や二度ではないが、体系的に理解が出来ない。
疑問をぶつけても、元ヨメやその友人、牧師でも明確かつ理論的な説明が出来ないし、しやしない。
私はITの専門家だが、ちょっとITをかじっているぐらいの人の興味に付き合って専門的な説明をするのは大変だからしないし、どうも、そんな感じでもあった。
一時期は思い詰めて、四ツ谷の上智大学に赴き、社会人向けの聖書講座を受講するか、二部(今はもうないのかな?)を本気で受験しようかと思ったほどだ。
明治から昭和初期までの日本の知識人は、英語と聖書(キリスト教)の洗礼を受けたと思うが、それに抗った作家もいるし、太宰がどうだったかで言えば、またそれは稿を改めよう。
ちなみに、太宰治関連のイベントは本サイトで専門的に発信をしている。
鰭崎潤に関しては、<企画展示>太宰治より~親愛なる、鰭崎潤へ太宰治イベント情報/2022年/10月で伝えているし、SNSでも告知・発信しているが、ご存知だろうか?

<企画展示>太宰治より~親愛なる、鰭崎潤へは今月15日までの企画展示なので、興味のある人は早めにどうぞ。
本サイトのコンテンツに関しては充実させるツモリだが、今後の体調次第かも知れない。
何とか、こういった独自コンテンツと独自の太宰文学解説をしたいと思っているのだが。
昨年の反省は沢山あるが、今年はあまりネガティブなことは書かないことにしよう。
やりたいことは死ぬほどある。昨年は出来なかったが、今年は少しずつでもやりたい。

 


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