作家として再出発した太宰治の「黄金風景」とは?独自解説する!


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管理人「一日の労苦」(金木小学校 太宰治「微笑誠心」碑)

2022/10/13

「黄金風景」は、1939(昭和14)年01月20日から04月11日にかけて『國民新聞』に同社主催の「短篇小説コンクール」参加作品計30編が掲載された中のひとつで、参加作家は國民新聞社が指定したものだった。
「黄金風景」は『國民新聞』に17番目に掲載された太宰治の短編小説で、選考の結果、上林暁の「寒鮒(かんぶな)」とともに当選した作品である。
コンクール賞金は100円だったが、太宰と上林で50円ずつに分け合った。このことについては、太宰が「当選の日」というエッセイに書いており、『國民新聞』紙上で掲載されている(文庫では未収録)。
本稿では「黄金風景」を取り上げ、「当選の日」についても言及する。
私は商学部出身であるから、文学部出身の人とは違った視点で作品を語ってみたい。

太宰文学中期の先陣を切った「黄金風景」とは?  

千葉の海

「黄金風景」は、太宰が実家を欺いて東京帝大を留年し続け、いよいよ進退窮まって鎌倉で縊死自殺未遂を企てたが、長兄・津島文治が「故郷に連れ帰る」としていたのを、井伏鱒二檀一雄が説得して「一年だけ待つ」と言質を得たところ、直後に太宰が急性盲腸炎になったことに端を発する。
太宰は阿佐ヶ谷の藤原病院に入院するも、手術後に腹膜炎を併発して重体になってしまうからだ。
この時、患部の苦痛を訴えて使用したパビナールが習慣化することになるが、退院後は北芳四郎(きたよししろう)の計らいで、内縁の妻であった小山初代と共に千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿1928(現・船橋市宮本1-12-9)の借家に病後保養で転居する。
つまり「黄金風景」は、太宰の失意の時期であった「船橋時代」に材を取った小説である。
そもそも太宰は大学を卒業する気はなく、大学入学とともに上京し、作家として世に出たかったに違いない。
実際に「遺書のつもり」として書き溜めていた作品をいくつか同人誌に発表し、新進作家としてデビューしかけていた時期でもあった。
ところが、急性盲腸炎からパビナール中毒になり、薬代欲しさの借金も重なり、千葉の船橋にいる太宰を訪れる友人・知人は少なかった。
「黄金風景」は、貧乏で薬物中毒に落ちぶれた境遇にある太宰が主人公で、かつてイジメた女中「お慶」の夫となった巡査が、戸籍調べに訪れたことで「飛び上がるほど、ぎょっと」することになった話だ。
原稿用紙8枚ほどの小品で、新潮文庫では『きりぎりす』に収録されているほか、青空文庫(無料)で読むことが可能だ。

きりぎりす (新潮文庫)
治, 太宰(著)新潮社
1974/10/02 発売
¥693
2023/10/28 00:42 現在(Amazon)

冒頭で述べたように、「黄金風景」は『国民新聞』の短篇小説コンクール応募作品であるが、井伏鱒二宅で石原美知子と結婚式を挙げた直後に山梨県甲府市に転居して、最初に執筆した作品だ。
全文を美知子夫人に口述筆記させた作品なので、「執筆」という表現は正確ではないかも知れない。
津島美知子回想の太宰治』には、「この家での最初の仕事は『黄金風景』で、太宰は待ちかまえたように私に口述筆記をさせた」とあり、プーシキンの物語詩『ルスランとリュドミラ』の冒頭をエピグラムとして添え、船橋時代までの自分とその文学から決別した作品だと言えるだろう。
太宰は作品の末尾で2度「負けた」と述べている。
最初の「負けた」は、お慶親子の3人を玄関先に見て、幸せそうなお慶親子と落ちぶれた自分を顧みた際の、言い知れぬ屈辱感からの「負けた」である。
最後の「負けた」は、お慶親子が海へ石の投げっこをしている会話を聞いて、殊にお慶が「あのかたは、お小さいときからひとり変わって居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった」と誇らしげに語っているのを耳にし、「かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える」とする「負けた」であった。
つまり、お慶は過去の主人公のイジメを乗り越えて「品のいい中年の奥さん」になっており、その現在のお慶に過去の自分の罪が解消されての「負けた」であって、海岸のお慶親子の光景は、主人公にとって明日の出発に光を与える「黄金風景」だったのだ。
こんなに短い小品でありながら、これほど物語が詰まった作品も珍しいが、そこはやはり短編の名手である、太宰ならではだろう。

プーシキンのエピグラムとその意味  

「黄金風景」の冒頭には、次のエピグラムが添えられている。

海の岸辺に緑なす(かし)の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて ――プウシキン――

前述したが、これはプーシキンの物語詩『ルスランとリュドミラ』の冒頭部分で、「学者猫」の部分を示唆するために、意図してここで切ったのだろう。
翻訳によって多少の違いはあるが、次の冒頭の部分だ。

入り江に立つみどりの樫の木に
金のくさりがかかっていた
くさりにつながれた学者猫が昼に夕に歩き回る
右へゆけば歌をうたい
左にゆけばお伽噺(とぎばなし)を語る

棺桶「物語の主人公の間A.S.プーシキン」(画面中央の左がプーシキンで右が学者猫)

作品の中で主人公の故郷は「K」とボカされているが、太宰ファンであれば容易に太宰の出身地「金木」であることが分かる。
だが、太宰ファンではない人しかいなかった作品発表当時、上記エピグラムにあるの鎖がつながれたは、暗に金木を連想させはしないだろうか? そしてその細き鎖につながっているお伽噺を語る学者猫は、主人公で(生家から分家除籍されている)作家の太宰自身を指している(エピグラムではそこまで書かずに示唆している)のが分かるだろう。
そして作品末尾、海岸でのどかに笑い興じているお慶親子の「かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える」光景は「黄金風景」であったというのは、太宰が語るお伽噺なのだ。
コンクール応募作品であるから、原稿用紙の枚数制限があったと思うが、だから冒頭にプーシキンのエピグラムを意図的に持ってきて、作品の題名と物語の締めをより効果的にしているのが分かる。
なお、太宰は「葉」で次のように書いている。

 兄はこう言った。「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている」私は言い憎そうに、考え考えしながら答えた。「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」

出典:「葉」(処女作品集『晩年』所収)

太宰は正式な結婚を経て山梨県甲府市に転居し、文壇に地保を固める作品を次々に発表するが、その第一作目が「黄金風景」なのが、何とも味わい深い。
学者猫たる太宰治は、心は終生故郷の金木にあり、酒を呑んでは歌をうたい、真面目に作品を書き続けた作家だった。

太宰治のエッセイ「当選の日」とは?  

太宰が「当選の日」の作中で買った國民新聞

「当選の日」は、『國民新聞』の短編コンクールに「黄金風景」と上林暁寒鮒(かんぶな)」と共に当選したことを書いたエッセイで、1939(昭和14)年05月09日から11日の3日にわたって同紙の学芸欄に連載発表された。

「当選の日」について書く前に、当時の太宰について書いておく必要がある。
太宰はパビナール中毒を治すために板橋の武蔵野病院(精神科病院・警視庁麻薬中毒救護所を併設)へ入院させられた後、入院中に「悲しい過ち」を犯した小山初代と離別、しばらく杉並区天沼のアパート「碧雲荘(へきうんそう)」(2016年に大分県由布市湯布院町へ移築され、現在は「ゆふいん文学の森」として公開されている。碧雲荘の保存・移築運動に関しては太宰治アーカイブズ/2015年ページを参照)で暮らしていた。
パビナール中毒は治ったものの、太宰を独りにしておくと、またぞろ何をしでかすか分からない。ここはひとつ、所帯を持たせるしかないんじゃね?と、津島家の御用商人、東京の北芳四郎(きたよししろう)と青森の中畑慶吉(なかはたけいきち)が相談し合い、困った時の井伏頼みで、井伏鱒二に泣きついた。
井伏の奔走で甲府に縁談話があり、太宰は井伏に促されるまま山梨県は御坂峠に今も現存する「天下茶屋」に逗留して小説を書き、石原美知子とお見合いをするが、太宰はこの辺のいきさつを「富嶽百景」(新潮文庫『走れメロス』所収)に書いている。

御坂峠 天下茶屋(2015(平成27)年05月22日撮影)

さて、なんとか周囲の助力で結婚式まで挙げることが出来たものの、貯金もなければ家財道具は机と布団があるぐらいで、新居を借りる敷金もない。
困っていたところに、妻の実家の近くに8畳・3畳・1畳の小さい借家が見つかった。家賃は6円50銭と安く、敷金も不要だったのである。
甲府に転居して早々に執筆したのが「黄金風景」で、短編コンクールに当選し、賞金の100円を上林暁と分け合ったのは既に書いたが、この時の嬉しさと感謝を書いたエッセイが「当選の日」だ。
「当選の日」は筑摩書房の『太宰治全集 11 随想』に収録されているが、文庫としてはどうやら未収録のようで、青空文庫旧字旧仮名で掲載されている。

 (えき)まで、歩いて、十五分くらゐかかる。朝の八時すこしまへで、學校(がっこう)に急ぐ中學生の列が、黒くぞろぞろ、つづいてゐた。歩きながら、だんだん嬉しくなつて()た。當選(とうせん)といふ事實(じじつ)が、はつきり掴めて來たのである。ふと、中學に合格したときの氣持が、思ひ出されて、あの時のうれしさも、こんなだつた。一瞬で、周圍(しゅうい)の景色が、からつと晴れたやうな、自分が急に身の丈一尺のびて、ちがふ人種になつたやうな、やはり、晴れがましい氣持であつた。家内の實家(じっか)の母に、だい一ばんに、その新聞を見せたかつた。

出典:太宰治「當選の日(二)四人のひとを尊敬する」(青空文庫)より引用
※旧漢字は読みやすいようにルビを振った

甲府に転居して最初に書いた作品がコンクールに当選し、その嬉しさは旧制中学に合格したときの喜びと、それを母親に教えたい晴れがましい気持ちだった。
蛇足ながら、私は大検を受験して合格証を受け取った時は大喜びをしたが、大学の合格通知を受け取った時は飛び上がって喜び、興奮して母に合格通知を見せたものだ。

「でも、よかつたわねえ。上林(かんばやし)さんと御一緒で、あたし、とても安心だわ。あなたおひとりだと、あなただつて、お苦しいでせう?」と言う妻と、そんな家内を褒めたい自分。
「黄金風景つて、どんな小説なんですか? 私は、まだ()んでゐないよ。」と、新聞の当選記事を読んでも何かしら不安らしい、義理の母。

これも、ひとつの「黄金風景」ではないだろうか。

「大家にあがって行儀見習い」の意味  

「黄金風景」の中で、戸籍調べにやって来た巡査(お慶の夫)が「なんというか、まあ、お宅のような大家(たいけ)にあがって行儀見習いした者は、やはりどこか、ちがいましてな」と述べている箇所がある。
私は大学で江戸時代から近代までの日本の経営史を勉強したが、だいたい10歳前後になると、長男以外の男児は近在や都市部の商家に奉公に出され、丁稚(でっち)手代(てだい)番頭(ばんとう)と出世し、店の主人から暖簾分(のれんわ)けを許してもらって独立する、というのが一般的だったようだ(商家以外にも職人の家に奉公に出されることもあり、この場合は弟子=子方として親方について職人になる)。

江戸時代の三井呉服店

明治期以降、奉公人は次第に近代的な商業使用人となって行くものの、親が子供を奉公に出すのは戦前ぐらいまで続き、松下電器(現・パナソニック)を創業した松下幸之助(1894(明治27)年生まれ)は尋常小学校を4年で中退させられ、9歳で火鉢店に丁稚奉公に出されている。
女児の場合もやはり10歳前後で奉公に出されるが、結婚までの「行儀見習い」や、結婚の予定がない「女中」として、近在または都市部のお屋敷や商家へ奉公に出されるのが一般的だったようだ。
奉公先は親族や友人・知人のツテだったろうが、どこにでも奉公へ行けるワケではなく、大店(おおだな)や大きなお屋敷(著名人のお屋敷を含む)に奉公へ行けるのは、同レベルの豪商や豪農の子弟や親族だけだったようだ。
明治維新前後頃から豪商や豪農の子弟が通ったのが慶應義塾であるし、普通の小作農は寺子屋に通えれば良い方で、文字が読めない状態で奉公に出され、奉公先の先輩や主人から仕事や文字を教えてもらうケースも多かったと、書籍で知った。
つまり、奉公先の大きさや著名さが奉公人にとってステータスであったし、それによって後の人生が大きく違ってくるのは当然だ。
また、奉公に出されても、奉公先で「使えない」「要らない」と判断されれば(いとま)が出される(追い出される)ワケで、かといってオメオメと実家には帰れない。一旦奉公に出されたら、必然的に奉公先では一生懸命に働かざるを得ないのだ。
そういった時代的な背景を知ってから「黄金風景」を読むと、また違った見方が出来るだろうと思う。
別に「黄金風景」の主人公(太宰)の肩を持つつもりはないが、奉公先で鈍臭(のろくさ)くボンヤリしているような女中は、一緒に生活を共にしている奉公先の家族から疎まれて当然だろう。だからといって非道な振る舞いをしていいワケではないが、一方的に被雇用者側の太宰やその生家をを断じ、お慶のようにウスノロだった女中を擁護するのは、見当外れであろう。
ともあれ、小説なので「黄金風景」の内容が事実だとは思わないが、作中のお慶は上品な主婦となっていて幸せだし、主人公は過去の罪悪感から開放されて新たな一歩を踏み出せるのだから、もうそれで十分なのだ。

おわりに  

織田信長が幸若舞敦盛(あつもり)』の小唄、

人間(じんかん)五十年、下天(化天)の内をくらふれハ、夢幻(ゆめまぼろし)の如く也

【現代語訳】
人の世の五十年ごときは、天上界の下方の時間で見るならば、ほんの夢や幻のようなもの

を好んでいたことは、広く知られている。
実は漢字の読みや意味が様々に誤解されたまま世間に流布されているが、中世から近世の日本人の寿命が50年程度だったという説もあるから、余計な信憑性を持ってしまったのだろう。
実際に江戸時代では、10代で丁稚(でっち)、20代で手代(てだい)、30代で番頭(ばんとう)、40代で店の主人になり、順調に出世して蓄財が出来れば、40代で楽隠居だったし、だいたい50代ぐらいで死んでいたようだ。とはいえ、丁稚奉公から叩き上げで店を持てる人は少なく、ゆえに江戸時代は生涯未婚率が高かったため、人口が増えなかったとも言われている。
平均寿命と結婚について言えば、高校の古文で伊勢物語の「筒井筒(つついづつ)」をやった覚えがあると思うが、高校生の私は(いにしえ)の恋愛と浮気の話より、その婚期の早さに驚いた。
考えてみれば、童謡・唱歌で知られる「赤とんぼ」の歌詞は、次の通りである。

「赤とんぼ」

夕焼小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小籠(こかご)に摘んだは まぼろしか

十五で(ねえ)やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

夕焼小焼の 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

作詞:三木露風
作曲:山田耕筰

「赤とんぼ」の歌詞は、作詞者である三木露風が故郷の兵庫県揖保郡龍野町(現・たつの市)で過ごした幼少期の情景で、三木露風が5歳の時に両親が離婚している。母親とは生き別れとなり、祖父の元で奉公に来ていた子守の女中(姐や)に面倒を見てもらっていたが、その姐やも15歳で結婚して手紙(便り)も来なくなってしまった、という内容だ。
今年(2022年)の4月に民法が改正されるまでは、女性は16歳で結婚できたのだが、近代化と社会構造の変化によって平均寿命が延び、女性の社会進出によって晩婚化と少子化が促進されるのは、日本を含めた先進諸国の問題ではある。
これから先の将来、太宰治の文学が古典化していき、昭和は歴史として顧みられないようになるのは仕方がないが、文学や歴史の正しい理解と認識は、いつの時代でも持っていなければならないだろう。
及ばずながら本稿がその一助になれば、と思う。

参考文献  

資料:國民新聞社 短篇小説コンクール  

No作者作品名
1大田洋子合掌
2菊岡久利みのご
3上野壯夫波のあひだ
4打木村治地平線の母
5南川潤假裝
6伊藤整療養所にて
8小田嶽夫
9松田解子夫婦
10本庄陸男路次にある家
11酒井龍輔旅人
12大江賢次
13宮城聰お店長屋
14豐田三郞禮儀
15小山いと子ユミ子よ
16上林曉寒鮒
17太宰治黃金風景
18犬田卯おびとき
19荒木巍椅子
20小熊秀雄帽子の法令
21福田淸人歸る日
22丸岡明瀧壺
23葉山嘉樹
24德田一穗女の見る夢
25森山啓旅宿
26新田潤朽ちた街
27淺見淵チンバ犬
28石河穰治乳房の階級
29鶴田知也グルンドビー
30久板榮二郞下駄
 


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