山崎富栄はなぜ「スタコラサッチャン」なのか?富栄の真実に迫る!


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太宰治小ネタ集

2022/07/09

山崎富栄は、太宰治の最晩年を支え、太宰とその仕事を守るべく、編集者や太宰周辺の人々、ファンから太宰を独り占めにしたかのような印象を周囲に与えたが、最後は太宰と一緒に入水したがために、没後その非難を一身に浴びることになった。
長篠康一郎を筆頭に、太宰文学研究者の努力とその研究成果や、または心ある作家の著作により、富栄の生い立ちや、その明るく聡明な人となりと、本来ならば日本の美容業界を背負って立つ人材であることが明らかになった(なっていた)。
しかしながら、私にはずーーーっと!大いに疑問に思うことがあった。
なぜに富栄は「スタコラサッチャン」と太宰からあだ名されたのか?
なるほど、富栄は「テキパキと手際がよく、太宰がワガママを言っても、すぐに応じて駆け出していく」からなのだなと、当時の太宰とその周囲も、現代の私達も何となく了解しているが、実は違うんじゃね?という小ネタを放り込みつつ、富栄の真実に迫りたい。
なお、文中の敬称は省略する。

太宰の周囲による富栄評  

山崎富栄はなぜ「スタコラサッチャン」なのか?を述べる前に、まずは太宰が死んだ際に葬儀委員長を務めた、豊島与志雄の富栄評を挙げておこう。
これには時系列的な意味もあるが、何よりも豊島は富栄との比翼塚を主張した、唯一の人だったのもある。

在りし日の山崎富栄(長篠康一郎『太宰治文学アルバム-女性篇-』より引用)

 昭和二十三年四月二十五日、日曜日の、午後のこと、電話があった。
「太宰ですが、これから伺っても、宜しいでしょうか。」
 声の主は、太宰自身でなく、さっちゃんだ。――さっちゃんというのは、吾々の間の呼び名で、本名は山崎富栄さん。
 日曜日はたいてい私のところには来客がない。太宰とゆっくり出来るなと思った。
 やがて、二人は現われた。――考えてみるに、太宰は三鷹にいるし、私は本郷にいるので、時間から推して、お茶の水あたりからの電話だったらしい。伺っても宜しいかというのは一応の儀礼で、実は私の在否を確かめるためのものであったろうか。
「今日は愚痴をこぼしに来ました。愚痴を聞いて下さい。」と太宰は言う。
 彼がそんなことを言うのは初めてだ。いや、彼はなかなかそんなことを言う男ではない。心にどんな悩みを持っていようと、人前では快活を装うのが彼の性分だ。
(中略)
 夜になって、臼井君が見えたので、だいぶ賑かになった。私はもう可なり酔って、どんなことを話したかあまり覚えていない。ただ、私の酔後の癖として、眼の前にいる人の悪口を言ってそれを酒の肴にすることが多いので、或は臼井君に失礼なことばかり言ったかも知れない。
 臼井君は、酒は飲むが、あまり酔わない。程よく帰って行った。
 太宰も私も、だいぶ酒にくたぶれた。太宰はビタミンB1の注射をする。なんどか喀血したし、実は相当に体力も弱っているので、ビタミン剤などを常に飲んだり注射したりしているのである。注射はさっちゃんの役目だ。勇敢にさっとやってのける。
(中略)
 さっちゃんは勇敢に注射するが、ただそれだけで、他事はもう鞠躬如(きっきゅうじょ)として太宰に仕えている。太宰がどんなに我儘なことを言おうと、どんな用事を言いつけようと、片言の抗弁もしない。すべて言われるままに立ち働く。ばかりでなく、積極的にこまかく気を配って、身辺の面倒をみてやる。もし隙間風があるとすれば、その風にも太宰をあてまいとする。それは全く絶対奉仕だ。家庭外で仕事をする習慣のある太宰にとって、さっちゃんは最も完全な侍女であり看護婦であった。――家庭のことは、美知子夫人がりっぱに守ってくれる。太宰はただ仕事をすればよかったのだ。
(中略)
 私たちは残りのウイスキーを飲みはじめた。女手は女中一人きりなので、さっちゃんがまたなにかと立ち働く。そこへ、八雲から亀島君がやって来、筑摩の臼井君もまた立ち寄った。暫くして、太宰は皆に護られて帰っていった。背広に重そうな兵隊靴、元気な様子はしているが、後ろ姿になにか疲れが見える。疲れよりも、憂欝な影が見える。
 それきり、私は太宰に逢わなかった。逢ったのは彼の死体にだ。――死は、彼にとっては一種の旅立ちだったろう。その旅立ちに、最後までさっちゃんが付き添っていてくれたことを、私はむしろ嬉しく思う。

出典:豊島与志雄「太宰治との一日」(『豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)』所収・未来社・1967(昭和42)年11月10日 第1刷発行)

日曜の昼過ぎだというのに、豊島宅で呑んでいた太宰(が電話をかけさせた富栄)に電話で呼び出されて酒を強請(ねだ)られた臼井吉見は、当時筑摩書房の雑誌『展望』の編集長をしていて、筑摩書房の2階で寝起きしていた。
上記の通り、臼井は豊島と太宰の酒宴に巻き込まれたのだが、気が進まないものの、神田の某所に頼んでウイスキーを一本都合してもらい、出かけて行った。

臼井吉見「晩年の頃」(山内祥史編『太宰治に出会った日』所収)

肴町の停留場から団子坂のほうへ、ぶらぶらやってゆくと、むこうから、サッチャンらしき女が小走りに近づいてくる。サッチャンとは太宰を死の道づれにした女性の通称で、太宰は「スタコラのサッチャン」という愛称で呼んでいた。いかにもスタコラとやってくる。ぼくは立ちどまって、待ちうけたが、すれちがうようになっても、気がつかない様子だった。かの女は強度の近眼だったが、太宰がメガネをきらっていたので、滅多にはかけなかったようだ。呼びかけて聞くと、太宰の今夜服用するクスリを買いに行くのだという。「早く行ってあげてください」と、いそいそとまた小走りにたち去った。
(中略)
外へ出ると、サッチャンが追っかけてきて、太宰さんのからだがひどく悪くて、今日など歩くのさえ苦痛らしい、病院へ入って、そこで気のむいたときだけ書くというのがいちばんいいと思うが、わたしというものがついてるでしょう、奥さんにすぐわかってしまうし、だからどんなにすすめても入院なんかしないと言っているし、・・・・・・というようなことをせきこむように話しかけてきた。ぼくはへんなことを言う女だナ、「私というものがついてるでしょう」とは何だ、入院すれば看護婦でも家政婦でもたのめるわけであり、何も「わたしというもの」などくっついている必要などどこにあるんだと思ったので、フン、フンと聞きとっただけで、かの女と別れた。これはどうしても、入院させなくちゃならない、少なくとも新聞小説を書くなどは無茶だと思い、あれこれと対策を考えながら帰ってきた。太宰は近いうちに、朝日新聞の連載小説*2を書くことになっていたのである。

出典:臼井吉見「晩年の頃」(山内祥史編『太宰治に出会った日』所収・ゆまに書房・1998(平成10)年06月29日 再版発行)

臼井は、他の作家や評論家、その他太宰に親しい人達のように悪し様に富栄を誹謗中傷することはしていないが(別の作品「太宰の情死」では富栄について明らかに事実と違うウソを書いているが割愛)、それでも富栄のことを快く思っていなかったのは、上記引用文章からみても明らかだ。
ここで注目すべき点は、富栄は極度の近眼だったのに「太宰がメガネをきらっていたので、滅多にはかけなかったようだ」という、臼井の証言だ。これについては後述する。
最後に富栄の評判について、作家や出版関係以外の人物はどうだったのか。
晩年の太宰と親しく接していて「メリイクリスマス」のモデルとしても知られ、新宿で文壇バー「風紋」を経営していた林聖子は、富栄についてどう思っていたのか、見てみよう。

森まゆみ『聖子――新宿の文壇BAR「風紋」の女主人』

「”スタコラさっちゃん”とみんなが呼んでた山崎さんは、太宰さんをとにかく独占したがった。自分以外の女性とは会わせたくない。自分が知り合う前から太宰さんを知っている人は排除したいという勢いでした。だから母も私もだんだん太宰さんと疎遠になっていった」
 そこから、聖子さんはゆっくりと、でもちょっと激しい言い方になった。
山崎さんが住んでいたあの部屋ね。写真を飾って遺書みたいなものをおいて、お線香立てて。あんな芝居がかったこと、あんなチャチなことを太宰さんなら絶対嫌がると思う。本気で死ぬならあんな恥ずかしいことはしない。衝動的な自殺というものもあるんじゃない?」
――太宰もあるときは死にたいと言い、あるときは死にたくない、死ねないと言った。死にたいと思ったときに、そっちに振れるひと押しがあったのかもしれません。野原さんは、太宰治が結核を病んでおり、喀血したりして、山崎さんの下宿では感染を恐れる家族から、お手洗いや洗面所の使い方まで厳しく注意されたとも書いています。
「前の日に、太宰さんは富栄さんといっしょにわざわざ大宮の筑摩書房の古田晁さんの家を訪ねているんですね。そしたら古田さんがいらっしゃらなかった。古田さんは太宰さんに栄養をつけさせようと、あの食糧難の中で、信州に食料の買い出しに行ってたんです。もし古田さんがいらしたら、違ってたかもしれない」

 聖子さんにとってもかけがえのない母の友人、そして可愛がり、甘えさせてくれた父のような太宰治を失った。彼を惜しむばかりに、聖子さんは心中相手の山崎富栄に対しきびしいが、野原一夫は「大切なお方と、とんだことをしでかしまして、お詫びの申しようも、ございません」と頭を下げた老人、富栄の父のことを書き留めている。富栄の家庭にはまた別の悲しみがあった。

出典:森まゆみ聖子――新宿の文壇BAR「風紋」の女主人』(亜紀書房・2021(令和03)年11月01日 第1版第1刷発行)

上述の通り豊島与志雄臼井吉見林聖子の3人とも、異口同音に富栄を「さっちゃん」と呼んでいて、当時の作家や出版関係者で(私が読んだ太宰治関連書籍等では)作品を書き遺して明確に富栄の味方をした人は、豊島与志雄田中英光を除くとほぼいない
むしろ文学者では豊島与志雄が例外中の例外で、引用した文章では富栄の味方をする書き方をしているし、太宰と最後まで添い遂げた労いの言葉を太宰の葬儀でも述べている。

山崎富栄はなぜ「スタコラサッチャン」なのか?  

富栄を「スタコラサッチャン」と呼んでいたのは太宰本人で、それは富栄が残した日記にも次のように書かれている。

山崎富栄著・長篠康一郎編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』

 七月九日

 悲しいひと二人、千草に泊る。
「太宰さんは私のために死ぬんじゃないってこと、判りますわ」
「君のために生きてるんですよ。本当ですよ」
「私の方が苦しいわ」
「僕の方が苦しいよ。話すと君が泣くと思うから言わないけど。僕の腕を継いでくれる人のいないのは悲しいね」
「惜しい、太宰さんを死なせるのは、勿体ないわ」
「サッちゃんは、女太宰だね、だから好きなんだ」
 随分多い私のニックネーム。
 女太宰。椿やのサッちゃん。スタコラ・サッちゃん。もぐら。東光。

出典:山崎富栄著・長篠康一郎編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房・1969(昭和44)年01月10日 第3刷発行)

富栄を「女太宰」と言った太宰の本心は良くワカランが、「随分多い私のニックネーム」の意味は、恐らく次の通りだろう。

引用した日記の「七月九日」は1947(昭和22)年のことで、この年の3月27日に職場の同僚である今野貞子の紹介で富栄は太宰と知り合っている(今野貞子はミタカ美容院に勤務していた美容師見習いで、太宰とは3月中旬に三鷹駅前の露店で知り合っていたようだ)。
富栄は引用した日記を書いた時、太宰と出会ってまだほんの3ヶ月しか経っていなかったが、5月1日の日記に太宰のことを「好きだ」と書き、同月3日の日記に太宰から「死ぬ気で! 死ぬ気で恋愛してみないか」と口説かれたことを書いている。
恋愛期間の長短はともかく、太宰が富栄に付けたニックネームに、私はミジンも愛を感じないのだが、どうだろう。
富栄に関する書籍を読む分には、なるほど確かに富栄は才色兼備の才媛で、英語やロシア語といった語学をやっており、聖書の理解もあったが、せいぜい映画好きまでの人で、それほど文学を読むような人ではなかったようだ。
土地柄か、富栄は幼稚園からしてカトリック系で、女学校卒業後はYWCAで聖書と演劇の研究に励んだとされているが(富栄を指導したのは小林秀雄の妹の高見澤潤子で、この人は田河水泡の奥さんでもある)、聖書の知識や理解も、恐らく太宰の比ではなかったろう。
それにしても、私は若い頃から「なぜ富栄はサッチャンと呼ばれていたのか?」が疑問だった。それは「ウィヨンの妻」が「さっちゃん」で、富栄がテキパキと手際がよく、太宰がワガママを言っても、すぐに応じて駆け出していくからだ、というのが一般的な理解のようだが、なぜか私は腑に落ちないままだった。

スタコラサッチャンとは?  

富栄がなぜ「スタコラサッチャン」と太宰から呼ばれ、周囲もそう呼んだのか、その由来を明示している書籍があった。

杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』

 太宰は彼女をスタコラサッちゃんと呼んだ。それは、彼女が女学校時代に、級友からつけられた愛称で、動作がキビキビしているところが、そのころ流行した漫画の人物に似ていたからだという。
 彼女は太宰に献身的に奉仕した。太宰がザボンを食べたいといえば、どこからか買って来るし、餅が食いたいといえば、すぐに買いに出かけた。文字通りスタコラサッちゃんであった。

出典:杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』(文藝春秋・1967(昭和42)年06月25日 第1刷)

富栄の年譜を調べると、1932(昭和07)年3月に元町小学校を在学中優等の成績で卒業、4月に京華高等女学校に進学している。この時富栄は12歳で、月刊誌『少女倶楽部』7月号に田河水泡の「スタコラサッチャン」の連載が始まるため、上記の内容をそのまま信じるにしても、時期的には間違いがないと思われる。
ちなみに、富栄の両親は日本初の美容と洋裁の専門学校である、東京婦人美髪美容学校(通称「お茶ノ水美容学校」で、以下、本稿ではこの通称を使う)を1913(大正02)年に設立しており、1927(昭和02)年10月に近代的な鉄筋コンクリートの新校舎(地上3階地下2階)が落成している。そのゆえもあって、両親による美容と洋裁技術の徹底した教育のため、1934(昭和09)年4月に京華高等女学校から錦秋高等実業女学校へ転校している(富栄・14歳)。
田河水泡の「スタコラサッチャン」の連載は1933(昭和08)年12月号までだから、「スタコラサッチャン」の愛称で呼ばれていた女学校時代というのは、京華高等女学校に在籍していた頃に限定出来るようだ。
では、田河水泡の「スタコラサッチャン」とはどんなマンガなのか?

スタコラサッチャン POST CARD(大日本雄辯會講談社『少女倶楽部』懸賞商品)

私なりに調べたが、戦前の、しかも今から90年近くも前のマンガなので、上記ポストカード(昭和何年のものか不明ながら『少女倶楽部』当時の懸賞商品)を入手するのがやっとだった(その他、SNSで関連画像を公開している人がいたものの、所詮はSNSでしか情報発信していないからか、画像の引用を断られたことを付け加えておく。多分、大学の学部レベルの論文すら書いたことはないのだろう)。
蛇足ながら、私の母校には今や国内最大級のマンガ図書館があり、ネットで蔵書検索が出来るので『少女倶楽部』の蔵書を検索してみたが、一番古いモノで1934(昭和09)年8月号だったため、残念ながら「スタコラサッチャン」は載っていないと思われる。
どうやら「スタコラサッチャン」は、同じ田河水泡の『のらくろ』のように単行本として出版されていないようで、マンガそのものを当たるのなら、国立国会図書館に行くしかないようだ(file田河水泡・のらくろ館にも資料はあるかも知れないが)。
さらに調べてみると、この田河水泡の「スタコラサッチャン」が少女マンガの起源のようだが、手塚治虫が「八方塞がりになるか、四面楚歌になるか、それは覚悟のうえで、今ここで、あえて本音で漫画を語りたい」と本の前口上で断りを入れながら、貴重な証言をしている。

手塚治虫・石子順『手塚治虫 漫画の奥義』

 ――戦前の女学生の間では、中原淳一派と松本かつぢ派に分かれるといわれるほど、そのくらいの人気でしたからね。
手塚 そう。でもね、戦前の女の子っていうのはね、漫画にはあまり興味を持ってないんですよ。
 ――漫画があまりなかったからじゃないですか。
手塚 いや、漫画はありましたよ。『すたこらサッちゃん』とかいろいろと、あったんだけれども。
 ――あっ、田河水泡が昭和九年に『少女倶楽部』に一年連載した『ラッキーサッちゃん』ですね。
手塚 つまり、漫画を読みたくないんです。少女たちは少女小説ですよ。自分たちの憧れるものは少女作家だったんです。そういう意味では松本かつぢも、横道というか、わき道だったわけです。けれどなぜ、少女たちが知っていたかというと、かつぢはいろんな広告をつくりましたから。子ども向けの商品とかいろいろとね。それを見た人は多かったはずですよ。
 戦前の少女漫画に対する評価っていうのは、絵だけだったんですから。内容じゃなくてね。

出典:手塚治虫石子順手塚治虫 漫画の奥義』(講談社・1992(平成04)年12月01日 第1刷発行)
※文中、話の聞き手が石子順

上記の『手塚治虫 漫画の奥義』は、手塚治虫による戦前からを含む「漫画史・漫画論」なのだが、初めに明治期に『時事新報』(後に東京日日新聞と合併し、さらにその後に毎日新聞になる)の福沢諭吉に見出されて活躍した北澤楽天、大正期に夏目漱石からマンガの腕を買われて朝日新聞に入社し、マンガ記者として活躍した岡本一平岡本かの子の旦那で、息子は芸術家の岡本太郎)から取り上げるので、近代日本のマンガ史の概要が分かるという、とても濃ゆい内容の本だ。
しかし、戦前の少女マンガに関してはそんなに言及はしておらず、田河水泡の「スタコラサッチャン」に関しても、どうやら後に「ラッキーサッチャン」になり、更に「サッチャンとモンチャン」に変遷したらしいのだが、それらについても一切触れていないので、当時の少女マンガについては雰囲気ぐらいしか分からない。
ゆえに「スタコラサッチャン」の内容は不明ながら、手塚治虫が述べているように、当時の少女はマンガよりも絵だけの評価で、少女マンガ自体が評価されていなかったのだとすると・・・。
つまり、富栄は生粋の江戸っ子で、早口の東京弁に所作がキビキビしていて、「スタコラサッチャン」のような愛嬌があったから女学校時代のクラスメートから愛称として呼ばれていたに相違なく、それが大人になって、しかも戦後の大変な時期に大変な作家である太宰と恋仲になってしまった。
太宰は何かのキッカケで富栄の女学校時代のアダ名を聞き知って、別の意味に解したのではあるまいか。要するに、マンガは(特に当時は)子供が読む低俗なモノだし、しかもそれが少女マンガとは!そういえば、富栄の所作挙動がいかにも「スタコラサッチャン」のようにマンガ的である、みたいな(太宰自身に絵心があり、『人間失格』の主人公・大庭葉蔵を漫画家にした構成は、偶然ではないハズだ)。
太宰の周囲にいた作家や出版関係者等も、富栄に対する太宰の意を「お察し」していたのかも知れない。それが太宰と富栄の没後、流行作家だった太宰を惜しむ声が大きくなるあまり、富栄は「知能が低く、魅力のない女だった」「酒場の女らしい」といった根拠のない憶測やデマになり、一時期は富栄による太宰治殺人説なども出たぐらいだから、富栄とその遺族は長いこと世間から非難と攻撃の的にされ、一言も言い返せないまま耐え忍ぶしかなかったに違いない。

命懸けの恋愛とは・・・  

前述・引用した臼井吉見「晩年の頃」の中に、「太宰がメガネをきらっていたので、滅多にはかけなかったようだ」とあったが、これについて生前の富栄を姉のように慕った女性が、富栄の没後50数年を経て一冊の評伝にまとめ、亡き富栄に捧げている。

梶原悌子『玉川上水情死行――太宰治の死につきそった女』

 夏の終わりと記憶しているから、富栄が死の決意をかためたこの「夢のやうな」日の前後だったろうか。ある日わたしは叔母の池上からたずねられた。
「太宰治っていう小説家、知ってるかしら」
「ダザイ、オサム、読んだことないけど、どうして・・・・・・」
「実は今日、富栄さんが美容院にきてね」
 叔母が語った話によると、富栄が突然三鷹から来てしばらくお喋りをしていった。向こうの美容院でも富栄の仕上げるセットが垢抜けていると評判で、毎日忙しい日を送っているらしい。
「最近、ものを書いている人とお付き合いしているの。こんどその人の書いた本持ってくるから読んでね。太宰治っていうの。とってもいい人なの。みんなにもぜひ会わせたいわ」
 富栄は楽しそうに太宰の話をしていたという。
「富栄さん元気そうで安心したわ。でも眼鏡がこわれたって、かけずに来たのよ」
 叔母の話を聴きながら、わたしは富栄の銀ぶちの眼鏡を思い出していた。整った鼻すじと切れ長の眼をちょっと冷たくさせて、それだけに理知的な顔だちに見せている眼鏡だった。三鷹から鎌倉まで来るのに眼鏡なしでは不自由だったろうに、早くなおせばいいのにと何か腑に落ちない思いが残った。
(中略)
 翌年六月、二人が玉川上水で入水心中したと新聞に大きく報道された時、わたしははじめて「太宰治」という小説家を詳しく知った。
 あの時鎌倉に突然来たのは、それとなく別れを告げる心づもりだったかとも思った。それから何年も過ぎ事件の話題も薄れたころ、太宰が眼鏡をかけた女性を嫌うので、富栄はときどきはずしていたということを聞かされた。
「眼鏡のツルが壊れてしまつた」と書かれた富栄の日記は五月五日付けであった。長い間太宰のために不自由を耐えたのが哀れだった。

出典:梶原悌子『玉川上水情死行――太宰治の死につきそった女』(作品社・2002(平成14)年05月25日 第1刷発行)

著者の梶原悌子は、敗戦の翌1946(昭和21)年4月に鎌倉の長谷1丁目で美容室「マ・ソアール」を開店した池上静子の姪に当たる人で、当時旧制専門学生の17歳だった。
池上静子は富栄の両親が設立したお茶ノ水美容学校に通った経験はあったものの、美容師資格は持っておらず、偶然山崎つた・富栄の義理の姉妹を知っている青木信譲の紹介で、2人を迎え入れて美容院を共同経営で始めるところだった。
当初は池上静子4:山崎つた6の割合での美容院の共同経営に、富栄がつたに頼んで加わった格好だが、つたはお茶ノ水美容学校の卒業生で、富栄のすぐ上の三兄・輝三男(きさお)(1942(昭和17)年東京陸軍病院にて戦病死)の妻で戦争未亡人であり、小1の女児と学齢期前の男児の2人の母でもあったため、富栄は自分が居るせいでつたの取り分が減るのが申し訳ないと考えていた。
そこで富栄は、やはりお茶ノ水美容学校の卒業生で、三鷹駅南口前でミタカ美容院を経営していた塚本サキを頼り、同年11月に三鷹に移ることになった。
空襲による戦災で、戦後間もない当時は住宅払底の住宅難ではあったが、塚本サキが古くからの友人である野川あやのに頼み、その2階6畳間の一室(太宰が後に飲酒と仕事場に愛用した小料理屋千草の前の家)を借りてくれたのだ。
富栄が三鷹に移るほぼ同時期の同年11月、太宰は疎開先の生家・金木を出発し、一家を引き連れて三鷹の旧宅に戻っているが、なんという運命のイタズラだったろう。
梶原悌子は10歳年上の富栄を姉のように慕って甘えた由だが、富栄が鎌倉の美容室「マ・ソアール」で働いたのは、実質8ヶ月ほどだったのである。
しかしながら、梶原悌子は前掲の評伝で、次のように書いている。

 それだけに妻の美知子に渡す生活費は充分とはいえなかった。まして治子誕生の一件は絶対に妻に知らせられないことだったから、これからの養育費の捻出などは大きな課題だった。富栄はなんとしても「奥様にはかうしたことで御心配をかけしたくな」いと考えていた。それは太宰を世話する日々のなかで、美知子の苦労や憤懣がどんなに重く深いかがわかってきたからだった。
 こうして世話をやき貯金を使い果たしても、富栄は太宰の家庭を壊して一緒になろうとは考えていなかった。妻子のある人と知ってからは、結婚をあきらめていた。心の隅で妻としての生活を願ってはいたが、それは実現できない望みだとよく承知していた。
「あのかたの作品を読んで元気づけられ、生きてゐる沢山のひとたちのために」太宰によいものを書き残してもらいたいと願った。
 もしも太宰が書いているように人を憂い、人の侘しさ、つらさに敏感なことが人間として一番優れているのだったら、富栄はとても優しく優れた人だったのかもしれない。
 富栄はこの年の十一月にミタカ美容院を辞めた。
 太宰の近くにいて身の回りの世話をし、仕事を手伝い、来客の応対などに追われて、夏のころから富栄の勤務は休みがちとなっていた。しだいに経営者との仲もしっくりいかず、居づらい雰囲気ができてしまった。また体調を崩した太宰が、自分の留守中に不規則な生活と深酒を重ねるのも心配だった。
 十月いっぱいで店を辞めると他の美容院から来てくれないかとの誘いがあったり、自分の店を開く話があったりしたが、すべて断った。太宰との交際に反対している父母や、行く末を案じてくれる身内や縁者を棄てての、世間を狭めた決断だった。
 こうして一九四七(昭和二十二)年が暮れた。

出典:前掲書

妻子がある野郎に惚れた女性は、いつの時代もバカを見るのかも知れないし、そもそも不倫が良かろうハズはない。
だからバカを承知で述べるが、私も富栄のように、全世界を敵に回そうが、たとえ自分の全財産と生命を抛ってでも、一途に愛する誰かを、そのたった一人だけの味方になりたかった。
また、そのように生涯でたった一人でいい、一身を捧げて愛されるような人間に、私はなりたかった。
私の願望はともかく、恋愛の成就が死であるとは、人の世はあまりに悲しすぎる。
だから人の世に文学があり、太宰治の文学は時代を超えて読み継がれるのだろう。

参考文献  

 




*1 太宰は初対面の富栄に、自分はキリストだと言っている(1947(昭和22)年03月27日付 富栄の日記参照)
*2 絶筆となった「グッド・バイ」