「桜桃忌に間に合わそう」とばかり焦り、システム的にオープン可能にはなったが、トップページをどうするか?が悩みのタネであった。取り急ぎ大好きな林忠彦氏撮影の写真をスキャンしてトップページとサイトロゴに採用してはみたものの、サイト名がサイト名である。
『文士の時代』(林忠彦・朝日新聞社・1986年4月25日第一刷発行)は愛読書のひとつだし、ファンでもある林忠彦氏の「イメージ」をなにがしか傷つける可能性がないではない。
やはり、ちゃんと写真の使用許諾を得ようと考えていたが、どこに連絡して良いやらサッパリ分からない。
そんな折、たまたまFacebookで知人の投稿を見ていたら、林忠彦氏のご子息(プロの写真家)とお知り合いなのを知り、ネットで調べたら林忠彦氏の写真の著作権を管理している方だった。しかし、ネットで分かる連絡先はことごとく通じない(「この電話は使われておりません」状態)。
Facebookでその知人に連絡を取ってこちらの意図を説明し、連絡先(ご子息に連絡が取れる事務所を把握している協会)を教えてもらい、ネットから協会に問い合せてみた。
問い合せをした協会からメールで回答が来て、研究室の電話番号とFAX番号を教えていただいた。酔狂な問い合せ(しかも面倒そう?)なので簡単に言えば「直接連絡して聞け」ということなのだが、図らずも「将を射んと欲すれば云々」の通り(?)な展開となった。
意を決してお電話してみると、ご本人が出てビックリ。連絡先を知った経緯と用件をなるべく手短に伝え(たつもり)、どのようにサイトで写真を使いたいのか、連絡先も含めてFAXして欲しい、ということになった。
てっきり門前払いかと思いきや、有り難い!
FAXする内容として、数日かけて
を作成した(カッコ内の枚数はA4での枚数)。
私なりに「思い」を練ってぶつけた内容となったが、それだけに作るのに時間がかかってしまった。ともかく出来上がった原稿その他をプリンタで印刷し、コンビニからFAXしたのだった(昨年の秋頃だったかな?自宅の固定電話を廃止したのと同時にFAXを梱包して押入れのコヤシにしていた)。
実は1週間から10日ほど待ってみて、連絡がないようであればお電話するしかあるまい、と決意していた。
何度かお電話してみたものの一切電話がつながらなくなり、「ああ、こりゃ絶対に避けられているな。頭のオカシイ奴が本当にFAXして来たが、読んでみたらやっぱりヤバイ奴だった」と思われただろうと、勝手に想像して落ち込んでいた。
ダメなら一言「ダメだ」と言われないと諦めようもないし、先に進めない(私は諦めの悪さが人一倍強いので、実に迷惑な人間だったりする)。
「多分、またつながらないだろう」と思ってお電話してみると、意外にもつながったので逆にビックリした。
だが、これから出掛けるので翌日の午前中に再度電話して欲しい、とのことだった。
「これで良くも悪くも結論が出る」と思うと、震える手で(アル中だからではない)電話を掛ける。すると別の電話(携帯電話)へ掛け直して欲しいとのこと。
改めて掛け直すと、写真の許諾に関してはおおよそ次の内容であった。
サイト名が1995年に未曾有のテロ事件を起こした教団を想起させるのは、林忠彦氏の「イメージ」に関わる。私の懸念はズバリ的中していた。
結論としてはダメだったが、それはもっともな話であると想定していたので、ここは潔く退かなければならない。
ともあれ、これで「次」へ進める。トップページの写真画像とサイトロゴを撤去し、Twitterで当該イラストを広く募集することに腹を決めた。コンテンツ作成も順次開始するべく、関係するサイト内の各ページ内容を更新した。
以下、余談。
いくら共通の知人がいるとは言え、一面識もない未知の人間が突然連絡してきて「写真の使用を許諾しろ」と言うのだから、そもそもムチャな話である。しかもサイト名がコレでは、さぞや面食らっただろうと思う。本当にご面倒とご迷惑をお掛けしてしまった。
ところが、氏は申し訳無さそうにお話をして下さる。すぐに返事が出来なかったのも、様々にお考え下さったようで、これまた大変申し訳無さそうに仰る。失礼ながら非常に真面目な、お優しい方のようで親近感を感じた。不躾なお願いをしている私は、それこそ恐縮しきりで、目に見えなくなるほど小さくなった気がした。
普通なら携帯電話へ掛け直させることもしないで、昨日の電話の段階で事務的に「ダメです、許諾は出来ません」の一言で片付けられただろう。
嬉しいことに私の熱意は伝わったようで、熱意には熱意で応えて下さった。しかも、田村茂氏の写真がサイトの意図としては良いのではないか、サイト名は(変更しない意図は分かるが)例えばこのようにしてみては?等々、貴重なご意見を伺うことが出来た。それ以外にも、林忠彦氏の出版物のお話や、これから開催されるイベントのお話も伺え、思いもしないことばかりで流石の私も驚くやら嬉しいやら、図らずも貴重なご縁となった。
私が中学・高校生の頃の太宰治ファンは、当時の世間一般の目からすると「青春のハシカにかかった中二病」であったし、それなりに風当たりは強かった。ウッカリ太宰治の文学について熱弁をふるおうものなら、人格まで否定されかねないほどだ。
映画「トラック野郎・爆走一番星」(1975年(昭和50年)12月公開)では、太宰治ファンの女子大生がヒロインとして登場するが、当時の太宰治とその文学はこのような理解だったという、その証左である。
私は19歳の頃に東京都武蔵野市関前の、友人が間借りしていた(しかも半分朽ちていて傾いている)廃業した牛乳店の2階に転がり込んで移り住んだが、当時の武蔵野市や三鷹市周辺は、太宰治には素知らぬ風で冷淡だった。太宰治が山崎富栄と入水した玉川上水は昭和23年当時、都民の飲料水であった。地元民が太宰治を必ずしも良く思わない土壌が、当時はまだ根強くあったのだ。
あれから何年経っただろう。時代は変わったし、太宰治への世間的な理解や見方も変わった。負の伝説が、新たな発見と評価の前に消え去ろうとしている。多分に『文豪ストレイドッグス』の影響もあるとは思うが、全体的には良くなっていると思う。
私はこのサイトを何年続けて行けるか分からないし、どのようなコンテンツを生み出して行けるかも(ある程度は考えているが)、先のことはワカラン。
少なくともサイト名でマイナスイメージを抱く人はこれから先は減少する一方でしかない。その時、私はこのサイトをどこまで成長させられ、支持を得られるか。
本当の勝負は今日から始まった、と言えるかも知れない。
日付が変わってしまったが、TwitterとFacebookページでイラスト募集の投稿を完了した。
応募してくれる絵師さん、いるかなぁ?(;´Д`)
本サイト用にイラストを募集したものの、そう都合よく絵師さんが現れてくれるハズはなく、サイトにコンテンツを追加するよりはベースとなっているPukiWikiを改造する方が先でもあるので、積極的に営業するワケにも行かない(そしていつまで経ってもコンテンツが充実しないという悪循環)。
「サイトの顔」を確立しないことにはどうしようもないのだが、悩みつつも先に進めない状況が続いていた。ところが、あるとき突如神の啓示があった(突然インスピレーションが湧いた)。
「そうだ!今まで撮影した太宰治の写真を使えば問題ないじゃん!」
そこで、自分が撮影した写真を整理すると実に良い写真があったので、メニュー上部とトップページ用に加工して採用し、イラストの募集を停止することにした。