タグ:管理人「一日の労苦」, 2021(令和03)年, 太宰治書簡集, 『愛と苦悩の手紙』, コロナ茶番, ワクチン禍, 国家政体の限界, 資本主義の限界, 共産国家支那の崩壊, 歴史の変わり目, 太宰治のTwitter
2021/09/02
愚鈍で迂愚な私でさえ、「近年の世相は末期的だな」と思っている。
三島由紀夫最後の言葉(檄文)ではないが、
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずにして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。【憂国忌】三島由紀夫最後の言葉【檄文】(SEの良心)より引用
日本人はバブル景気の絶頂からドン底に落ちてなお、未だに「失われた30年」を生きている。そして政治や社会、他人にも無関心なまま、自己の保身・金銭欲・権力欲にまみれ、自分自身にすら真正面に向き合おうとしていないのだろう。
例えが悪いが、病院の精神科や心療内科に列をなしている病人が多いという事実だけは、「正直で真面目な日本人が多い」証左として、まだ救われる気がする。
また、昨年は三島由紀夫の没後50年という節目の年だったが、奇しくも1月から世界的に新型コロナウイルスが蔓延し、日本でも2月から大騒ぎとなって、それは現在でも続いている。
ネットで情報を得ている国民の大多数は、政府の無為無策とその無能ぶりを余すところなく知ることとなった。
国民に一度10万円を支給しただけで何もしてくれず、いつまでも自粛ばかりを要請して「自助」を迫る総理大臣と無能大臣に有害知事、それに加え老害専門家会議とその提言をテレビで垂れ流すマスコミは、戦中末期の大本営と何ら変わらないだろう。出口戦略がないのだから、我々国民は救われない。
21世紀になってからでも、以前から「資本主義の限界」が経済学者等の識者から指摘されてはいたが、同様に「共産主義国家支那の崩壊」も指摘されて久しい。
先の2つの大戦は、世界の欧米列強国とアジアの列強国との「帝国主義の限界突破」による戦争であり、戦後は新たな世界秩序が構築されたが、それも戦後70余年を経た今、世界秩序の劣化と国家の政体およびその経済モデルの限界なのでは?と思われる。
つまり、我々が生きている今現在は、世界が新たなフェーズに突入する「歴史の変わり目」だろうと思うのだ。
私は陰謀論に与しないが、現在の世界的なコロナ茶番とワクチン禍は、世界が新たなフェーズに突入するトリガーとなっている、と考えて良さそうだ。
ともあれ、個人的にここ3ヶ月ほどは鬱々として楽しめず、趣味のPukiWiki関連開発と本サイトを含むサイト運営に、なかなか時間が割けなかった。いきおい好きな読書に逃げることになるが、以前読んだ太宰治の書簡集『愛と苦悩の手紙』に、戦前・戦中・戦後の太宰の生の声を聞きたくなって読み返してみたのである。
画像左が1998(平成10)年06月25日に改訂初版で発行された角川文庫クラシックス(税別520円)で、右が太宰治生誕100年の2009(平成21)年12月05日に改訂3版で発行された角川文庫(税別590円)だ。
私は左の角川文庫クラシックスを新刊が出たタイミングで購入して読んでいたが、そんなことはスッカリ忘れていて、太宰治生誕100年記念に出版された太宰治関連書籍のひとつとして、ウッカリ右の角川文庫を買ってしまったのだった。だって、こんなカバー写真の文庫なんて「持ってないから買おう」ってなるよね?
それはともかく、本来、作家の書簡集なんてのは全集の別冊扱いなのが普通で、また、全集を買って読もうという熱心な読者か研究者しか読まないものだ。それが独立した文庫として発売され、しかも版を重ねているというのは、太宰をおいて他にないだろうと思う。
書簡集が文庫になるのは、太宰の人気が未だに衰えず健在だということでもあるが、太宰本人が非常に筆まめな人で、太宰からの手紙やハガキを受け取った先輩・友人・知人が大切に保管していたから、とも言える。
ちなみに、早稲田大学を創設したことで知られる政治家の大隈重信は、ほぼ自筆の書が残っていない。大隈重信は大の悪筆家で、本人もそれを終生恥じていたようだが、書類や手紙のたぐいは必ず代筆させていたという。
大臣を歴任して総理大臣にもなった有名政治家で、当時は田舎大学まで創設した大隈重信からの手紙やハガキであっても、本人が自筆で書いていないがゆえに(それは周知の事実だったので)、用済みになったら捨てられてしまう運命であって、大隈重信の書簡もほぼ現存しない由である。
小学生の頃からパソコンでプログラミングをやっているような私でさえ、自筆の手紙の良さと重要性を知っているし(中学生の頃は大学生のお姉さんと文通していた)、我々の世代だと雑誌広告の「日ペンの美子ちゃん」のボールペン字講座は、とても重要だと認識していたものだ(だが今も昔も私を含め、周囲でボールペン字講座を受講した人を見たことがない)。
日ペンの美子ちゃん・・・Twitterやってたんか。Σ(´Д`;)
時代だなぁ。ァ '`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、
・・・話が大幅に逸れまくったが、亀井勝一郎が編集して文庫にまとめた太宰の書簡が212通であり、編者による書簡の取捨選択はあるし、紛失されたり未発見のままになっている書簡もまだまだあるだろうから、この一冊で太宰の書簡を読んだような気になってしまうのは危険かも知れない。
当時は今と違って電話は特権階級のモノだし、急いで知らせるなら電報が確実だが、1字当たりいくらの世界だから、ハガキで待ち合わせをしたり、手紙で意見交換をするのは当然で、近況を報告するのが普通であった。
そこで太宰の書簡を文庫で最初から全部読み返してみると、盧溝橋事件と通州事件が発生した支那事変の1937(昭和12)年までは、特に世相に関しての言及がないどころか、太宰は船橋時代を送っており、小山初代と離別したのがこの年であった。
翌1938(昭和13)年からは山梨県の御坂峠を経て美知子夫人との結婚や新婚生活に関しての書簡が多く、また、作品と実人生が充実している様が伺える。
先夜は、やられました。
日暮里で一やすみ、巣鴨で下車して一やすみ、亀井は吐き、私は眠り、ともにまたはげましあって、やっと新宿から電車に乗り、こんどは私は電車の窓から吐き、亀井は少し正気づき、私は正気を失い、とうとう亀井に背負われるような形で三鷹の家へ送りとどけられました。山岸外史宛書簡 1940(昭和15)年12月12日
ノンキに山岸外史へハガキで報告しているが、この1年後に日米は開戦し、日本は全面的に大東亜戦争へと突入する。
戦中に関しては、1942(昭和17)年に『文芸』10月号に掲載予定だった「花火」(戦後「日の出前」と改題して発表)が全文削除を命じられたといった手紙があったり、1943(昭和18)年に「右大臣実朝」を「
1944(昭和19)年になると、いよいよ戦局が悪化するが、日本文学報国会の要請で「惜別」を執筆することになったり、「雲雀の声」(戦後「パンドラの匣」としてゲラ刷を元に再執筆)が空襲で印刷所ごと焼失した等が書簡から分かる。
翌1945(昭和20)年になるとB-29による無差別爆撃が本格化し、軍需工場が密集していた郊外の三鷹も標的にしたため、太宰は一家を引き連れて甲府と故郷の金木へと疎開する旨の書簡が出て来るが、やはり時局批判をする内容は皆無だ。
むしろ8月15日の終戦を境に、生家での居候としての居辛さや、田舎生活の不満を主に井伏鱒二に書いているが、長兄文治氏の戦後初の民選知事選挙や、祖母の葬式といった雑事で上京がかなわない焦れったさを手紙に書いている。
本格的に時局批判をするのは1946(昭和21)年からで、
このごろはまた文壇は新型便乗、ニガニガしきことかぎりなく、この悪傾向ともまた大いに戦いたいと思っています。
私はなんでも、時を得顔のものに反対するのです。尾崎一雄宛書簡 1946(昭和21)年01月12日
私は
無頼派 ですから、この気風に反抗し、保守党に加盟し、まっさきにギロチンにかかってやろうと思っています。
フランス革命でも、理由はどうあろうと、ギロチンにかけたやつは悪人で、かけられた貴族の美女は善人ということに、後世の詩人は書いてくれます。金木の生家など、いまは「桜の園」です。井伏鱒二宛書簡 1946(昭和21)年01月15日
いま最も勇気のある態度は保守だと思います。
(中略)
私は、こんどは社会主義者どもと、戦うつもり。まさか反動 ではありませんが、しかし、あくまでも天皇陛下ばんざいで行くつもりです。それがほんとうの自由思想。小田嶽夫宛書簡 1946(昭和21)年01月28日
と、立て続けに手紙を書き送っている。
この年の11月12日に金木を出発し、途中仙台で1泊しているが、14日には三鷹の旧宅に帰り着いた。
上京するや、三鷹の家に出版社の編集員や友人・知人、新たなファンの来訪往来が頻繁になり、それに応じてか書簡の数も少なくなり、あれほど手紙を出していた井伏鱒二とは1946(昭和21)年05月01日の手紙を最後に、(文庫で読む分には)書簡のやり取りをしていないようだ。
戦時中、井伏は文士徴用で招集されたり、徴用解除で帰国した1944(昭和19)年に一時期を山梨県の石和に疎開し、当時甲府に疎開していた太宰と交友を温めた一時期はあったようだが、甲府でもB-29による無差別爆撃で灰燼に帰し、太宰が金木へ再疎開してしまうと、井伏は井伏で広島の生家へ再疎開したから、戦後はお互いに会うことなく別離の体になったのだろう。
太宰の遺書にあったとされる「井伏さんは悪人です」は非常に意味深だが、太宰没後の太宰とその文学を歪めたのは井伏鱒二に依るところ大であるから、あながち「井伏さんは悪人です」は、否定し切れないところではある。
井伏鱒二の話はともかくとしても、戦中は検閲の恐れがあったにせよ、戦前においても支那事変や日米開戦までの時期は、太宰は太宰で自分のことに忙しく、社会や政治や世相なんてのは眼中になかったことが、改めて明らかになったような気がした。
戦後になって自由にモノが言えるようになると、今までの不満や社会について批判するようになったが、それらを含め戦前・戦中・戦後を網羅しているこの書簡集は「太宰が生きた時代のTwitter」のようだと思った。
メディアがネットのSNSではなく、手紙やハガキであるだけで、そう大きく変わらないだろう。その昔、2chの人気スレが『電車男』といった書籍化されたのと、そう大差がないように思う。それに太宰には『風の便り』という、往復書簡風の作品があるではないか。
最後に、今回の読書は本サイトの太宰治名言集と太宰治真理教Twitterアカウントに反映させておいた。
いわゆる「名言」は、「格言」のように物事の本質を鋭く短く一言二言でズバッ!と言い得るから「名言」なのであって、そういった意味では名言らしからぬ文章を掲載し、採用しているが、書簡の中で名言と思われるモノの他、作品が成立した背景として重要なモノ等を厳選したつもりである。
ネットには出典不明な偉人や作家の名言サイトや名言記事にあふれているが、本サイトの太宰治名言集が凡百の名言サイトや名言記事と一線を画するだろうことは、見ていただければ分かると思う。
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