管理人「一日の労苦」/2021/0730立原道造の生誕に寄せて

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管理人「一日の労苦」(金木小学校 太宰治「微笑誠心」碑)

2021/07/30

立原道造の生誕に寄せて  

若い頃に読んだものの、大人になって読まなくなるのは概して文学の類だと思うが、詩集などというのは、その最たるものではないか?と思う。
私にとっても同様で、若い頃に読んだ文庫の詩集を開く頻度は歳を重ねるごとに減少し、今では本棚の肥やしになっているが、詩集をひとたび開けば、当時の若かった自分を思い出させてくれる。それは当時テレビや街に聴くともなくあふれていた流行の歌謡曲のようで、今ではちっとも聴かないが、ひとたび聴けば「懐かしい」という感慨が蘇ってくるアレである。
7月29日と言えば、日本人が決して忘れてはならないものの、多くの日本人が知らない通州事件が発生した日であるが、その翌30日が立原道造の誕生日であることを知る人は、通州事件よりも少ないかも知れない。

立原道造詩集

近年では『文豪ストレイドッグス』や、ブラウザ/スマホゲーム「文豪とアルケミスト」等の影響で、特に若い女性を中心に昭和の文豪とその作品が知られるようになった。詩人では中原中也が『文豪ストレイドッグス』の作中に登場するから、知名度や人気も高いようだ。
中原中也ほど、その詩作の素晴らしさもさることながら、個性とアクとクセの強い詩人も珍しいと思うが、後世に詩集とその名を残す詩人は、とかく変わった人が多い。
そういった意味で、限りなく人格やその生活がごくマトモな詩人といった意味で、立原道造は特異なケースであると言えよう。
立原道造は旧制府立三中(現・両国高校)から旧制一高、東京帝大の建築学科へ進学し、卒業後は(24歳で夭折したから短い間であったにせよ)建築家として建築事務所に勤めたのだから、経歴だけ見れば「文学好きなエリート建築家」である。
ところが、この詩人の詩とその世界は他の詩人と一線を画す。一例として、私が当時から好きな詩の一篇を引用してみよう。

ゆふすげびと

かなしみではなかつた日のながれる雲の下に
僕はあなたの口にする言葉をおぼえた
それはひとつの花の名であつた
それは黄いろの(あは)いあはい花だつた

僕はなんにも知つてはゐなかつた
なにかを知りたく うつとりしてゐた
そしてときどき思ふのだが 一體(いったい)なにを
だれを待つてゐるのだろうかと

昨日の風に鳴つてゐた 林を()いた靑空に
かうばしい さびしい光のまんなかに
あの(くさむら)に 咲いてゐた・・・・・・さうしてけふもその花は

思ひなしだか 悔いのやうに--
しかし僕は老いすぎた 若い身空で
あなたを悔いなく去らせたほどに!

出典:中村真一郎編『立原道造詩集』(角川書店・昭和61年03月20日 改版31版発行)

蛇足ながら、詩の理解のために少しだけ補足しよう。
ユウスゲ(夕菅・夕萓)とはユリ科ワスレグサ属に分類される多年草のひとつで、キスゲ(黄菅・黄萓)の別名を持つ。

ユウスゲ

花言葉は「麗しき姿」と「媚態」で悪い意味はなく、そのクッキリとしたロート状の美しい花の姿から由来している。昔の人はユウスゲを月明かりの闇に浮かぶ、艶めかしい姿として捉えたのだろう。
ちなみに立原道造の処女詩集は私家版の『萱草(わすれぐさ)に寄す』で、花言葉のひとつにもなっているが、ワスレグサの花を持っていると「憂いを忘れる」(「愛の忘却」の意味もある)と言われている。文庫の解説によると、どうも立原道造ユウスゲワスレグサを混同視していたようだ。
ゆえに、引用した「ゆふすげびと」の一篇は、日本古来の『万葉集』に見られる(忘れ草をモチーフとした)「恋が忘れられない」系の和歌に通じる、現代の詩として読めるだろう。
当時高校生だった私は、この立原道造の甘い旋律の詩にヤラレまくった。
10代の頃は、私のように文学にヤラレるか、または音楽にヤラレるかの差はあれ、詩作を試みてみるものだ。私の拙い詩はお話にならないほどヒドいモノであったが、立原道造の詩はどれも甘いのに、詩としての音楽的とも言える旋律が一本通っていて、とても真似が出来るものではないことを痛感した。
恐らく立原道造は建築家として立体構造物を計算し、設計して組み立てる知的で特殊な才能があり、また文学者としては非常に珍しい実務家でもあったから、どれも甘く甘美とさえ言える詩なのに、破綻することなく成立するのだと思う。
前述した通り、立原道造は結核により24歳の若さで夭折しているため、彼が設計した建築物は埼玉県さいたま市の別所沼公園にある、ヒアシンスハウスだけだろうと思う。

ヒアシンスハウス(風信子荘)の看板

ヒアシンスハウス(風信子荘)正面

ヒアシンスハウス(風信子荘)左前方斜めからのアングル

私が立原道造の詩集を愛読していた高校生の頃、高校の友人が浦和に住んでいたため、よくバイクで遊びに行ったものだが、別所沼公園はその通り道にあった。地元の人が釣りを楽しんだり、家族連れが散歩したりするような大きい公園だが、当時はヒアシンスハウスなどは建っていなかった。
ところが数年前、Facebookで私が立原道造に関して何か投稿したコメントに、知人が「別所沼公園ヒアシンスハウスにも行きました」みたいなことを書いてくれたので、非常に驚いたのである。
調べてみると、浦和・大宮・与野が合併して政令指定都市になる際の2003年に、ヒアシンスハウスの建設が決まったようだ(翌2004年に建設され、一般公開されている)。
旧浦和市は、何故か文学に関係する土地であるから、今度時間を作って調べてみようと思う。太宰治関連で言えば、「メリイクリスマス」のモデルとして知られる林聖子さんが、戦時中から戦後の一時期を父の林倭衛と共に浦和に住んでいたし、その他、浦和に縁がある詩人や俳人が何人かあるようだ。その一人が立原道造で、別所沼湖畔に週末に集う「芸術家のコロニイ」としてヒアシンスハウスを設計していたのだった。それに大宮は、太宰が最晩年に『人間失格』の最後の章を執筆したことでも知られている。
脱線ついでに言えば、東京帝大時代に立原道造と太宰治、檀一雄は学内でタマに顔を合わせて会話をする仲であった(そもそも太宰治も檀一雄も大学に登校する方がマレであったようだが)。

 今でも(おぼ)えてゐるが、丁度正門のところで大きな三角定規を小脇に抱へこんだ立原道造とすれ違つたことがある。たしか、正門の前の、私のゆきつけの質屋で、何がしかの金を握つてゐたところだつた。私達が、「よう!」と呼び止めると、立原は帽子を取つて、丁寧にお辭儀(じぎ)をした。何かテリヤの純粹種(じゅんすいしゅ)を見るやうだつた。
「立原君。淺草(あさくさ)にでもいつてみない?」
 と、太宰は例の甘つたるい(こえ)で、呼びかけた。太宰は時々、不必要に媚びるやうな、(こえ)をつかふことがある。
「さあ、今日はちよつと失禮(しつれい)させていただきます。何か御用事?」
 立原はためらひながらも(ことわ)つた。
「いや、いいんだ。何でもないんだ」
 と、太宰はしきりに(ばつ)が悪さうに、さう云つた。
「ぢや」と、立原は通り過ぎた。
「オドかすねえ、三角定規など抱へこんで」
 羨ましかつたのだらう。太宰はさつさと校内の方に歩みこんだ。
 自分の生活は、全くそれに背反してゐたくせに、太宰は規律正しい學生(がくせい)生活、毎日カバンを抱へ、定刻に家を出て、學校(がっこう)のノートを丹念に書き込み、などと云ふことに、途方もない夢想とあこがれを持つていた。

出典:檀一雄小説 太宰治』(近代生活社・昭和30年10月20日 初版発行)
※読みやすいよう旧漢字にはルビを振った

どうだろう? 立原道造を知らなかった人でも、太宰治や檀一雄と接点があることを知れば、いくらか親近感が湧くのではないだろうか。
もっと言えば、立原道造が亡くなる昭和14年2月に、第1回中原中也賞の受賞が決まったのだが、翌3月29日に病状が急変して不帰の人となった。享年24歳。早すぎる死だった。
急変が起きる前の3月は小康状態が続き、医師も夏頃まではもつだろうと予想していたという。見舞いに来た芳賀檀に、一度ずつで食べおえる小さい缶詰をねだったり、また若林つやに、こう注文したという。

五月の風をゼリーにして 持ってきてください
ひじょうに美しくておいしく
口の中に入れると すっととけてしまう
青い星のようなものが食べたいのです

出典:『立原道造全集 第6巻 雑纂』p646「年譜」

立原道造は死の直前であっても、その詩の通りの詩人であった。

 

参照