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2025/01/02
明けましておめでとうございます
本年も宜しくお願いします
私の体調というか、健康状態については先月「今年の白百合忌と桜桃忌について―近況報告に代えて」に書いたし、昨年はやっと「聖地巡礼の旅」を書き始めてコンテンツ化したから、今年の抱負としては、なるべく健康に留意しながら大いにコンテンツ(駄文)を書いてサイトを充実させようと目論んでいる。
新年の挨拶といったって、近年は「元旦一斉休業」するチェーン店は増えたものの、昭和の頃の年末年始の風情といったものはとっくに失われていて、今じゃ年賀状を送り合うこともしなくなりつつある。
私は長いこと毎年年賀状を出すようにしていたが、2年連続で年賀状を出すのを諦めた。
ひとつには体調が悪くてそれどころではなかったので、一昨年は年賀状を出すに出せなかった。
昨年は年賀状ぐらいは出せる程度に回復していたが、「去年は年賀状を出せなかったし、どうせ元旦に届く年賀状なんてもうないだろう」と思って放棄してしまった(と思ったら、何通か元旦に年賀状が届いていた)。
それに両親が存命の時ですら、父は勘当息子だから父方の親戚とは没交渉だし、母方の親戚ともそんなに親しい付き合いはしていなかった。
生前の母がよく言っていたのは、「(一家揃って創価学会員の)姉さんは『兄弟は他人の始まり』だなんて言うのだから、仕方がない」だった。
母の姉さんという人は、気が強くて思ったことを何でもズケズケ言う、いかにも一癖ありそうな顔をした伯母さんで、いつも私の顔を見るなり何かしら小言を言わねば気が済まないような人だった。
母や、その他の兄弟が創価学会に入信しないのが、とにかく気に入らないようだったのを覚えている。
そのくせ事あるごとに聖教新聞を取れ!と家にまで来て押し売りし、母も根負けして渋々聖教新聞を取ると、父が「読むところが一行もない!」と毎回怒るのが常だった。
ともあれ、父の死後ずっと後になって、私が大学生をやっていた頃だから平成の中頃だったと思うが、祖父が死んだ遺産相続で初めて父方の実家で家業(鉄工所)を継いだ叔父さんと会ったぐらいだし、その叔父さんも亡くなり、母の姉兄弟も全員亡くなっていて、親戚は代替わりをしているから会うことも絶無に近い。
若い頃に仕事でお世話になった人も、今や現役を退いているばかりか「終活」とやらで、何人もの人から「年賀状は今年で最後にします」と伝えられている。
それに大学も卒業して20年以上が経つと、学生時代の友人はそれぞれ結婚したり引っ越したりで、会うこともなくなって年賀状ですら途絶えてしまう。
とまぁ、年始早々こんなグチまがいのことを書いてたって仕方がない。
ここはひとつ、大晦日から年明けにかけて熱燗をやりながら読んだ本の話を書こうと思う。
本サイトに来るぐらいの人なら、太宰が入水する半年ほど前に書いた「酒の追憶」という作品を知っているだろう。
この作品の中で、友人で俳優の丸山定夫に誘われ、太宰は家に遊びに来ていた伊馬春部と一緒に新宿にあった居酒屋「秋田」に行き、「あんな豪華な酒宴は無かった」と振り返る。
その夜、秋田に於いて、常連が二十人ちかく、秋田のおかみは、来る客、来る客の目の前に、秋田産の美酒一升瓶一本ずつ、ぴたりぴたりと据えてくれた。あんな豪華な酒宴は無かった。一人が一升瓶一本ずつを擁して、それぞれ手酌で、大きいコップでぐいぐいと飲むのである。さかなも、大どんぶりに山盛りである。二十人ちかい常連は、それぞれ世に名も高い、といっても決して誇張でないくらいの、それこそ歴史的な酒豪ばかりであったようだが、しかし、なかなか飲みほせなかった様子であった。
出展:太宰治「酒の追憶」(新潮文庫『津軽通信』所収)
初出:1948(昭和23)年01月『地上』
終戦に近い頃の話だから、当時の酒は軍隊に献上する戦略物資でもあったし、すでに国内の酒が尽きかけていて、配給でわずかな量を呑むのが精一杯の時代だ。
そんな時代に常連一人一人に日本酒一升とは豪勢ではあるが、ヤミで入手した酒に違いないのが分かるだろう。
まだ東京大空襲に遭う前だと思うが、そろそろ東京も空襲されていて、「秋田」の女将としても「いつ空襲で店がヤラレるか分からない」という不安の中で、お世話になった常連に「さいごのサーヴィス」をしようという、粋な計らいであったと思う。
私が「酒の追憶」を初めて読んだのは、恐らく高1の頃だったと思うが、その頃すでに酒の味を覚えていた、悪い少年だった。
後年、池袋の立ち飲み屋を振り出しに、最初に勤めた会社があった池袋では散々呑んだし、若い頃は勤務先が新宿の時もあったから、歌舞伎町やゴールデン街、それと特にションベン横丁では朝まで呑み歩くことが多かった。
私の若い頃は仕事のストレスや母の介護で荒れていたから、もっぱらバーで強い酒を呑むのが好きだったが、夕飯がてら新宿の居酒屋を呑み歩きながら、それとはなく「秋田」がないか、探したことがあった。
恐らく、新宿三丁目で文壇バー「風紋」を経営していた林聖子さんに聞けば一発で分かったかも知れないが、ウカツな私はいつの間にか「秋田」のことを忘れていて、結局林聖子さんに聞くことなく、「風紋」からも足が遠のいてしまった。
「酒の追憶」は小説ではないし、実名が書いてあることから、全くのフィクションではあるまい。しかし、終戦に近い頃と古い話であるし、お店の関係者も、お店に通った常連も、今となっては存命していないだろう。
ところが先日、思いがけず『わたしの酒亭・新宿「秋田」』という、正に「秋田」の女将その人が書いた自伝本(1980(昭和55)年11月10日 第1刷発行の古本)を発見し、飛び上がらんばかりに驚いた。
こりゃ、大発見だ!と買い求め、最近は読書する気にすらならず、読みたい本を20冊も30冊も本棚に積んだままにしていたから、年末年始に一杯やりながら読もうと思ったのである。
まだ読了していないから、中途半端な感想等を書くのはこの記事の読者に失礼なので、今は遠慮しておく。
どちらかと言うと太宰作品の興味からというより、私は酒呑みだから、昭和の古い時代にどんな居酒屋だったんだろう?という興味の方が強い。
それでも、本の中でやはり丸山定夫や太宰について触れている箇所があるから、ちょっと紹介しておこう。
戦争も昭和二十年になると敗色が濃くなる一方で、お酒もむろん自由にはなりません。酒、たばこはきびしい統制の対象となり、配給制になっていましたし、国民酒場と呼ばれる立飲み所には長い長い行列ができる始末です。わずかビール一本飲むのにさえ、人々は争って並びます。私はひそかに闇のお酒を手に入れて、常連の人を喜ばせました。
広島の原爆で、移動公演中に落命された俳優の丸山定夫さんや、入水自殺された太宰治さんがやってきたのもその頃です。二人は仲が良く、それを見ていた澪などは太宰さんを青森のあんちゃんと呼んでいたものでした。闇酒を飲ませる日はそっと常連に知らせ、一週間に一度くらいの割で集めたと思います。出展:神成志保『わたしの酒亭・新宿「秋田」』(文化出版局・1980(昭和55)年11月10日 第1刷発行)
著者で「秋田」の女将だった
それに娘の
それはともかく、「太宰治「メリイクリスマス」を語り継ぐ」や、「作家として再出発した太宰治の「黄金風景」とは?独自解説する!」のように、解説記事が書けたら面白いだろうな、と思っている。
・・・昨年、胃が痛くてかかりつけ病院の胃腸科で血液検査をしたところ、ガンマGPTの値が8,000という驚異的な数値を叩き出し、医師が看護師を呼んで「何かの間違いじゃないのか!?」と騒ぎ出した。
私のガンマGPTの最高記録は10年以上前の800だったから、それの10倍とはこりゃダメだなとw
それなのに、この駄文を書きながらチビチビ熱燗を呑んでたら、もう一升だ。
流石にこれ以上のムチャが続くと、そう長くは生きておるまい。
だが、SEやプログラマという人種はムチャしながらシステムを設計してコードを書いて生きているのが実情だから、そもそもの生き方としてしゃーないのだ。
あわよくば、本サイトを通じて太宰治その人と文学の魅力を伝えられたら幸いだ。
そこに、私が果てしなく開発をせにゃならんPukiWiki関連開発を続けている意味がある。
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